「図書費用に使ってください」41年間、匿名で寄付を続けた男性 子供たちと初対面 By - grape編集部 公開:2015-12-09 更新:2019-02-06 子ども学校 Share Tweet LINE コメント 山形県の鶴岡市立羽黒第四小学校で、『鶴岡のおじさん』と呼ばれ親しまれている男性がいます。その男性は1974年4月から41年間、匿名で図書費用を送り続け、子供たちの間で伝説になっていました。 鶴岡のおじさん 1974年4月中旬、鶴岡市立羽黒第四小学校に一枚の手紙が届きます。そこには、「自分が受けた恩を社会へお返ししたい。どうか図書費用に使って下さい」と書かれた手紙と共に、2000円が同封してありました。 手紙には子供たちが読めるように、赤い文字で振り仮名も。 封筒の裏には「鶴岡市」とだけ記載。達筆で自らを「小生」と書いてあることから、手紙の主を男性と判断し『鶴岡のおじさん』と愛称をつけて呼ぶことにしました。 それから毎月、手紙と共に届く図書費用。時には図書券が入っていたり、季節によっては少し大目の金額が入っていたそうです。 図書費用の寄付は2015年の12月まで続き、総額220万1300円、購入した『鶴岡のおじさん文庫』は1400冊以上にのぼりました。 閉校が決まり… 子供たちは毎年、鶴岡のおじさんに感謝するイベントを行い、劇を披露したり、顔を想像して似顔絵を描き図書室に飾ったりしていました。 しかし、2016年3月をもって同校は閉校することが決定。中には、親子二代で『鶴岡のおじさん文庫』を楽しんだという人も少なくありません。一度でいいから、おじさんへ感謝の気持ちを伝えたいという声は日に日に高まっていました。 そんな時、友人からの知らせで同校が閉校することを知った男性。自身の活動にひと段落つけようと名乗り出ることを決意します。 おじさんの正体 子供たちから鶴岡のおじさんと親しまれていた男性は、金野昭治さん、68歳。羽黒第四小学校の近くの羽黒第三小学校の卒業生でした。現在は仙台市に住んでいます。 貧しかった中学時代 金野さんは中学時代、家に金銭的に余裕がなかったため高校進学を諦めていました。しかし、担任の勧めで地元の奨学金制度を活用することで、無事に高校を卒業。 そのとき金野さんは、『この町に受けた恩は必ず返そう』と心に決めたそうです。 寄付を始めたきっかけ 金野さんが寄付を始めたのは、寄付を始める前年の1973年に同校を訪れたのがきっかけ。そこで金野さんは、図書室の本があまりにも少ないことに衝撃を受けます。聞けば、図書費用は年間2万円もないという実情がありました。 それを知った金野さんは翌年から、素性を隠し寄付をスタート、現在に至ります。 子供たちと初めての交流 閉校が決まる前は、子供の夢を壊さぬよう名乗り出る気はなかった金野さん。初めて子供たちと対面すると、終始嬉しそうな表情で交流していたそうです。 金野さんは「あまり大ごとにしてほしくない」と、報道陣からの取材は受けず撮影のみ。子供たちとの時間を楽しみました。 子供たちから感謝の手紙や歌が贈られると、涙を浮かべます。 その謙虚さや優しさが子供たちにもすぐに伝わり、「おじさんに会えて嬉しかった、私も勉強を頑張ります。」「今日の日のことを大事な思い出にします。」と、大切な何かを感じたようです。 金野さんから子供たちへ 最後に金野さんから子供たちへ、こんな言葉が贈られました。 私は今、英語の勉強をしています。夢に向かって努力できるのは幸せなことです。 今日は皆さんに会えて、言葉にならないくらい胸がいっぱいです。夢や希望、努力することの大切さを伝えられたのなら…おじさんの夢が叶いました。ありがとう。 「自分が受けた恩を返したい」という想いで、次の世代へ愛を送り続けた金野さん。学校が閉校してしまっても、金野さんの意志はきっと後世に受け継がれていくでしょう。 羽黒第四小学校の卒業生 毎月、鶴岡のおじさんからの手紙が楽しみで、手紙の文面からも、きっと真面目で優しくて、賢い方なんだろうなと想像していた、おじさん。こんなにも長い間、四小を支えてくれて、児童を思い続けてくれて、本当にありがとうと伝えたい。— すずきっくす (@bpm279) 2015, 12月 5 実はこの間閉校式に行ってきて、やっぱり私の原点はここだなと改めて感じた。同級生7人、全校児童も40人弱だったけど、みんな友達で、鶴岡のおじさんをはじめ、地域の人にいっぱい支えられて育ったんよの。忘れではだめ、大事にしよ。 pic.twitter.com/ez9aQ9cguf— すずきっくす (@bpm279) 2015, 12月 5 出典@bpm279 Share Tweet LINE コメント
山形県の鶴岡市立羽黒第四小学校で、『鶴岡のおじさん』と呼ばれ親しまれている男性がいます。その男性は1974年4月から41年間、匿名で図書費用を送り続け、子供たちの間で伝説になっていました。
鶴岡のおじさん
1974年4月中旬、鶴岡市立羽黒第四小学校に一枚の手紙が届きます。そこには、「自分が受けた恩を社会へお返ししたい。どうか図書費用に使って下さい」と書かれた手紙と共に、2000円が同封してありました。
手紙には子供たちが読めるように、赤い文字で振り仮名も。
封筒の裏には「鶴岡市」とだけ記載。達筆で自らを「小生」と書いてあることから、手紙の主を男性と判断し『鶴岡のおじさん』と愛称をつけて呼ぶことにしました。
それから毎月、手紙と共に届く図書費用。時には図書券が入っていたり、季節によっては少し大目の金額が入っていたそうです。
図書費用の寄付は2015年の12月まで続き、総額220万1300円、購入した『鶴岡のおじさん文庫』は1400冊以上にのぼりました。
閉校が決まり…
子供たちは毎年、鶴岡のおじさんに感謝するイベントを行い、劇を披露したり、顔を想像して似顔絵を描き図書室に飾ったりしていました。
しかし、2016年3月をもって同校は閉校することが決定。中には、親子二代で『鶴岡のおじさん文庫』を楽しんだという人も少なくありません。一度でいいから、おじさんへ感謝の気持ちを伝えたいという声は日に日に高まっていました。
そんな時、友人からの知らせで同校が閉校することを知った男性。自身の活動にひと段落つけようと名乗り出ることを決意します。
おじさんの正体
子供たちから鶴岡のおじさんと親しまれていた男性は、金野昭治さん、68歳。羽黒第四小学校の近くの羽黒第三小学校の卒業生でした。現在は仙台市に住んでいます。
貧しかった中学時代
金野さんは中学時代、家に金銭的に余裕がなかったため高校進学を諦めていました。しかし、担任の勧めで地元の奨学金制度を活用することで、無事に高校を卒業。
そのとき金野さんは、『この町に受けた恩は必ず返そう』と心に決めたそうです。
寄付を始めたきっかけ
金野さんが寄付を始めたのは、寄付を始める前年の1973年に同校を訪れたのがきっかけ。そこで金野さんは、図書室の本があまりにも少ないことに衝撃を受けます。聞けば、図書費用は年間2万円もないという実情がありました。
それを知った金野さんは翌年から、素性を隠し寄付をスタート、現在に至ります。
子供たちと初めての交流
閉校が決まる前は、子供の夢を壊さぬよう名乗り出る気はなかった金野さん。初めて子供たちと対面すると、終始嬉しそうな表情で交流していたそうです。
金野さんは「あまり大ごとにしてほしくない」と、報道陣からの取材は受けず撮影のみ。子供たちとの時間を楽しみました。
子供たちから感謝の手紙や歌が贈られると、涙を浮かべます。
その謙虚さや優しさが子供たちにもすぐに伝わり、「おじさんに会えて嬉しかった、私も勉強を頑張ります。」「今日の日のことを大事な思い出にします。」と、大切な何かを感じたようです。
金野さんから子供たちへ
最後に金野さんから子供たちへ、こんな言葉が贈られました。
私は今、英語の勉強をしています。夢に向かって努力できるのは幸せなことです。
今日は皆さんに会えて、言葉にならないくらい胸がいっぱいです。夢や希望、努力することの大切さを伝えられたのなら…おじさんの夢が叶いました。ありがとう。
「自分が受けた恩を返したい」という想いで、次の世代へ愛を送り続けた金野さん。学校が閉校してしまっても、金野さんの意志はきっと後世に受け継がれていくでしょう。
羽黒第四小学校の卒業生