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終わらない残業の中、独り言をいった男性 1時間後、帰宅したはずの同僚女性が戻ってきて

By - 産経新聞  公開:  更新:

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産経新聞大阪版、夕刊一面で毎日連載中。一般の方から寄せられた600字のエッセー『夕焼けエッセー』。

さまざまな年齢、職業の人々がつづった等身大のエッセーをご覧ください。

粕汁

今から40年前、ある土木事務所に勤務し仕事を覚えるために、先輩方の背中を見ながら、見よう見まねで図面や書類を作ることに必死の毎日で心身ともに余裕のかけらもなかった。そんな悲壮感と孤独感からか、ある冬の夕暮れ時に思わず「温かいかす汁食べたいな」とつぶやいたが、誰からも反応されることなく時間が過ぎ、数人で残業していた。

つぶやきから1時間半くらいたったころ、当時同室でアルバイトをしていた女性が、粕汁を大きな鍋に入れて持ってきた。私のつぶやきを聞いて自宅で作ってきたとのことで、そのにおいと湯気に圧倒され、感謝の言葉をかけることも忘れて食いつき、おかわりもした。粕汁が空腹の胃袋に染み込み、悲壮感と孤独感が溶けてホッとしたことを今でも鮮明に覚えている。

今、その女性が私の妻である。ありがたいことに、あの日から今に至るまで、その当時と変わらない粕汁をときどきいただいている。若い頃は、ひたすら食べて満腹感を味わうだけであったが、定年退職後は、転勤で4回引っ越ししたこと、2人の子どもをしっかりと育て上げいくつかの大病を乗り越えた妻、仕事一途であった自分のことなどを振り返るひとときになっている。

昨日、今年初めての粕汁をいただいた。昔から変わらない味だと言おうかなと思いながら食べていると、妻が「以前は市販の粕汁の素を使っていたけど、最近値段は少々張るけど質の良い酒粕と塩を使っているから、まろやかやろ」と言ったので反射的に「そうやな」と答えた。あー言わなくて良かった。ホッとした。

兵庫県 61歳

産経新聞 2019年03月12日 ーより

[提供/産経新聞 ・ 構成/grape編集部]

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