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自主独立を強調するも…日産とルノー“視界不良”は続く

By - ニッポン放送  公開:  更新:

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「報道部畑中デスクの独り言」(第138回)では、ニッポン放送報道部畑中デスクが、6月25日に開かれた日産の定時株主総会について解説する。

株主総会会場のパシフィコ横浜 入場前には多くの株主が行列をつくった(6月25日撮影)

カルロス・ゴーン前会長の逮捕からはや半年を過ぎ、日産自動車は6月25日、横浜で定時株主総会を開きました。今回は「ポストゴーン」体制、ガバナンス(統治能力)の強化が主要議題に。指名委員会等設置会社への移行などを盛り込んだ統治改革について、ルノー側が定款変更議案の棄権をちらつかせたと報じられましたが、委員のメンバーにルノーのティエリー・ボロレCEOを入れることで決着。議案そのものは拍手をもって承認となりました。

西川広人社長が「大きな節目」と位置づけた今回の株主総会は、3時間以上に及びました。私は会場に隣接するホテルの記者控室で総会のもようをモニターしていましたが、そのなかで感じた雰囲気は株主のルノーに対する“疑心暗鬼”でした。

「現時点で経営統合はやるべきではない」

「統合したら日産のブランド力が落ちる気がする。ルノーと平等な関係になったら話し合いを進めるのが良いのではないか」

「西川社長は日産をほかの企業に売り渡さないで腹をくくる覚悟はあるのか」

「スナール会長の日産の取締役としての任務は何なのか」

…株主からはそんな厳しい意見や質問が飛び出しました。

「経営統合がいいとは私も思っていない」

西川社長はこのように明言、「日産は日産であり続ける。一点のブレもない」と強調した上で、ルノー側とは経営の将来像を協議する場を設け、「資本関係も含めて突っ込んで議論して行く」と述べました。

総会ではルノーのジャンドミニク・スナール会長も、日産の取締役として発言。「私は変わっていない。日産の取締役として会社の幸せのため、従業員の幸せのために取り組んで行きたい。私が取締役である会社に対して“攻撃”することは全く考えていない」と述べ、これまでのルノーの姿勢に変わりはないことを強調しました。

今後の日産はどこへ行く?

一方、統治改革に介入した件については「単純に平等な形をお願いした」と説明。「日産の誇りを重んじ、日産の会長になるのをあきらめた。とは言っても私は日産の会長職を求める権利はあった」「FCAとルノーの統合は日産にとっても大きなメリットが見込めた。合併協議中止で喜んだのはライバルだ」とも述べました。出資比率でルノーが優位にある状況での発言、日産に対する支配欲をいまだ秘めているように感じました。

総会終了後、株主からは「(スナール会長の)奥にある腹の内までは見えなかった」「向こうに支配されるような感じがした」という声も聞かれ、疑心暗鬼は完全に払しょくされたとは言えないようです。

一方、日産の現経営陣への批判も相次ぎました。「現経営陣の道義的責任は重い。西川社長の解任を求める」という声が上がったとき、西川社長は冷静を装いながらもまばたきが増え、明らかな動揺が感じられました。総会では自らの進退について明言を避ける一方、「後継体制の確立と準備を加速したい」とも述べました。

西川社長は今年(2019年)1月の記者会見で、「できるだけ早く果たすべき責任を果たし、会社を軌道に乗せてバトンタッチをしたい」…区切りがついた時点での辞任を示唆する発言がありましたが、具体的な時期について明らかにされていません。トップに立つ人の引き際は誠に難しいものと感じます。

日産は鮎川義介氏が1933年に前身となる「自動車製造」を設立して以来、計16代、15人の社長(浅原源七氏が第3代と第8代の社長を務めたため1人少ない)が会社のバトンをつないで来ました。錚々たるお歴々が名を連ねるなか、長年“絶対君主”として権勢をふるっていたのはゴーン被告だけではありません。そのたびに権力闘争が繰り広げられて来たのも事実です。

例えば石原俊氏。1977年に社長に就任した石原氏は当初、「攻めの石原」と言われ、世界の自動車生産のシェアを10%にする「グローバル10」という野心的な経営方針を打ち出しました。ターボ車に代表される80年代の華やかな新車攻勢は、いまも鮮明に覚えています。

以前、小欄でも取り上げましたが、ライバルのトヨタ自動車に先駆けてブルーバードまでの小型車クラスをFF化すると宣言し、イギリスやスペインなどへの海外進出も果たしました。ただ、こうした戦略の多くは失敗に終わったと言われます。急拡大の方針に異を唱えた「労組のドン」塩路一郎氏とは骨肉の争いを繰り広げ、その間に会社の体力は徐々に失われて行きました。

株主総会は今回もインターネットで生中継された(YouTubeの画面)

また、日産の有史以前からあった由緒あるブランド「ダットサン」を廃止し、北米での販売低迷を招きました。しかし、塩路氏がスキャンダルで失脚してからというもの、社長退任後も会長として権勢をふるい、1992年まで15年間、日産の経営中枢に君臨しました。

また、1985年から6年間、経済同友会代表幹事も務め、財界活動も精力的でした。しかし、その後、バブルの崩壊もあって日産の財務基盤は悪化、ルノーとの資本提携に至る遠因になったと言われています。

一方で、会社を軌道に乗せ、ほどなく身を引いた社長もいます。それが1996年に社長に就任した塙義一氏。印象に残っているのは、1997年の東京モーターショー。日産のコンパニオンの制服は上品なデザインで定評がありましたが、この回は鮮やかなショッキングピンクを基調としたものでした。そして何と、塙社長までピンクのジャケット姿で登場したのです。経営不振のなか、少しでも明るい空気をということだったのかもしれませんが、当時の混迷の象徴のように私には見えました。

バブル崩壊後、辻義文氏から社長のバトンを引き継いだ塙氏は、利益の要を北米市場に求めましたが、インセンティブが拡大。逆に傷口を広げる形となり、日産は倒産寸前まで追い込まれます(北米市場の低迷が収益の足を引っ張る…つい最近も聞いた話です)。

日産は支援先を模索するも、ダイムラー・クライスラー(当時)の交渉は決裂。直ちに方針を転換し、1999年3月、まさにギリギリのところでルノーとの資本提携にこぎつけました。ゴーン被告らルノー側から経営陣を受け入れて自らは会長に、リバイバルプランなどのリストラを見届けながら2003年には相談役名誉会長となり、経営の一線から退きました。日産の再生はゴーン被告の手腕が大きかったことは誰もが認めるところですが、その基礎をつくったのは塙氏と言っても過言ではないと思います。

お二方はともに鬼籍に入っておられます。人の評価は「歴史が判断する」と言われますが、西川社長は第2の石原俊になるのか? 第2の塙義一になるのか? そして、20~25年の周期で繰り広げられて来た「混迷の連鎖」に、終止符を打つことになるのか? 20数年後にまた同じことが繰り返されるのか…西川社長の差配は、日産の今後を占う分水嶺になるのではないかと思います。(了)

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ニッポン放送自主独立を強調するも…日産とルノー“視界不良”は続く

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