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古田敦也は監督にして選手だった!? 嫁は中井美穂!!

By - grape編集部  公開:  更新:

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古田敦也

野球解説者、タレントとして活躍している古田敦也(ふるたあつや)さん。元プロ野球選手として素晴らしい成績を残し、高い知性と親しみやすい人柄で、男女問わず多くの人から支持されています。

そんな古田敦也さんの現役生活やプロ野球選手になるまで、これからの活躍といったさまざまな情報をご紹介します!

古田敦也のすごさ プロ野球までの大逆転劇

古田敦也さんが野球を始めたのは小学校3年生でした。「太めだから」とキャッチャーにされたことが、未来の大選手のスタートです。

高校も地元の川西明峰高校に進み、野球部のキャプテンを務めました。まじめに受験勉強に励み、一般入試で立命館大学に合格。勉強で視力が落ちたため、眼鏡をかけながら野球を続けました。

1年生のころからチームの主力として活躍し、4年生では大学野球日本代表のメンバーの座を勝ち取りました。一般的なプロ野球選手がたどるルートとは違った進路を進んできた古田敦也さんでしたが、『ドラフト』で指名してもいいという球団さえ現れました。

多くのプロ野球を志望する若者の運命を決するドラフト会議は、毎年秋に行われます。立命館大学は古田敦也さんのためにひな壇を用意して待っていました。ところが、1987年11月、古田敦也さんはドラフト指名から外れてしまいます。

当時「眼鏡をかけたキャッチャーは成功しない」というジンクスがありました。受験勉強で悪化した視力を補うためかけた眼鏡が理由で、古田敦也さんはドラフトから外れたのです。

※写真はイメージ

大学を卒業後、古田敦也さんはトヨタ自動車で社員として社会人野球を始めました。社会人野球時代に、才能あふれるピッチャーたちの投球を受けて実力を磨いています。

この時のピッチャーの中には、後にアメリカの大リーグで活躍することになる野茂英雄さんが名前を連ねていました。

古田敦也さんは、1988年に開催されたソウルオリンピックの日本代表に選ばれました。日本代表は銀メダルを獲得し、『眼鏡のキャッチャー』は1989年にドラフト2位でヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ。以下、ヤクルト)に入団します。

古田敦也がキャッチャーのイメージを変える

1989年当時のヤクルトは、セントラル・リーグでは4位、5位といった順位が続いています。

低迷を打破すべく、ヤクルトは野村克也さんを新監督に迎えました。野村克也監督はデータを重視する知性派で、『ID野球』と名付けた自身の方針で改革を始めています。

古田敦也さんの素質を見抜いた野村克也さんは、入団1年目にも関わらず正式にキャッチャーとして古田敦也さんを抜擢しました。

1年目の順位は5位に終わりましたが、翌年から快進撃が始まります。ヤクルトは11年ぶりにリーグ順位が3位以内となる『Aクラス』に入りました。1991年、古田敦也さんは名バッター落合博満さんを抜いて首位打者となっています。

そして迎えた1992年。ヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝を果たしました。日本シリーズは負けましたが、翌年にはリーグ優勝からの日本一に輝いています。実に15年ぶりでした。

古田敦也さんは『セ・リーグ表彰』の最優秀選手に輝きます。キャッチャーのベストナインにも選ばれる好成績を残しました。

私生活では、1995年に中井美穂さんと結婚しています。中井美穂さんはフジテレビ所属のアナウンサーからフリーとなりました。

古田敦也と中井美穂 1995年

古田敦也と中井美穂 1995年

古田敦也、恩師・野村克也について語る

古田敦也さんは野村克也さんの要求に答え、ヤクルトが9年間で3回の日本一を達成する立役者になりました。

古田敦也さんは恩師・野村克也さんについて、スポーツトーク番組『スポーツクロス』(BS朝日)の2018年11月16日に放送された回で次のように語っています。

(野村克也さんが)結果に対して厳しくいってくれたからこそ、真摯に結果に対して考えて反省して(中略)コツコツと長く頑張れたんじゃないかと思います。

スポーツクロス ーより引用

野村克也さんが監督を退いた後も、古田敦也さんは2001年にチームが日本一となる快挙に貢献しています。

2005年に古田敦也さんに転機が訪れます。大学生と社会人を経験したプロ野球選手としては初の通算2000安打を達成し、シーズン終了後には監督と選手を兼任するプレイングマネージャー(選手兼任監督)に就任しました。

プレイングマネージャーは日本野球界でも29年ぶりの快挙です。2007年には、古田敦也さんは2000試合出場を達成。惜しまれつつも同年プロ野球選手、そして監督を引退しています。

背番号は27。通算成績はヒット2097本、ホームランが217本。打率2割9分4厘という素晴らしいものでした。

『パワプロ』でも強い!

古田敦也さんは2015年に日本球界に多大な貢献をしたとして、『野球殿堂』入りを果たしました。

古田敦也さんの強さは広く知られています。人気野球ゲーム『実況パワフルプロ野球(以下、パワプロ)』においても古田敦也さんが登場。

ゲームでも強さを誇り、ネット上では「必ず使ってた」「球界の頭脳だ」という意見が上がっています。

古田敦也の現在・これから

古田敦也さんは現役引退後は野球解説者として活躍を始めました。ニュース情報番組『サンデーLIVE!!』(テレビ朝日系)でコメンテーターとしてレギュラー出演しています。

また、2019年8月にはスポーツ番組『熱闘甲子園』(テレビ朝日系)でキャスターとして活躍しています。令和元年を飾る甲子園の模様を伝えました。

MCとしては、スポーツ番組『スポーツクロス』(BS朝日)を2012年から担当しています。

古田敦也さんは、選手として素晴らしい成績を残し、従来のキャッチャーのイメージを一新させました。高い功績は日本野球界に残り続けることでしょう。

解説者としても活躍し、野球の魅力を伝えています。監督として返り咲くかもしれません。古田敦也さんのこれからに期待が集まっています。

古田敦也 プロフィール

生年月日:1965年8月6日
出身地:兵庫県
血液型:B型

小学校3年で野球を始める。川西明峰高校から一般入試で立命館大学に進学。大学野球で頭角を現し、日本代表に選ばれたが1987年のドラフトは指名されずに終わり、トヨタ自動車で社会人野球選手となる。ソウルオリンピックに参加後1989年にドラフト2位でヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団。野村克也監督に認められて正捕手となり、1991年には首位打者に輝く。9年間で日本一を3度達成し、『キャッチャー』のイメージを変えた。2005年には選手兼任監督となる。2007年に引退後は野球解説者、タレントとして活躍する。私生活では元フジテレビアナウンサーの中井美穂と1995年に結婚。


[文・構成/grape編集部]

出典
スポーツクロス@sundaylive_tv

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