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黒柳徹子の若いころの姿に「可愛すぎ」の声 恋人とのエピソードに驚く

By - grape編集部  公開:  更新:

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女優やタレント、司会者などマルチに活躍する黒柳徹子さん。

その好奇心は80代になっても失われることはなく、2016年9月にインスタグラムを始め、多くの人を驚かせました。

そんな黒柳徹子さんの、話題になった若いころの写真や、恋人についてなど、さまざまな情報をご紹介します。

黒柳徹子ってどんな人? ユニセフ親善大使としても活躍

まずは黒柳徹子さんのプロフィールをチェックしていきましょう!

生年月日:1933年8月9日

出身地:東京都港区乃木坂

血液型:A型

好きな食べ物:アイスクリーム

所属事務所:吉田名保美事務所

自由すぎる行動で小学校を退学に!?

黒柳徹子さんは、ヴァイオリニストとして活躍した父・黒柳守綱さんと母・朝さんの長女として裕福な家庭に生まれました。

子どものころから個性的でお転婆な性格だった黒柳徹子さん。小学1年生の時、授業中に机のふたを開け閉めしたり、ちんどん屋を学校に呼び込んだりするなど自由奔放な行動が多かったため、問題児扱いされて入学から3か月で退学処分になってしまいます。

転校先の『トモエ学園』は、子供の個性を大事にする自由な校風で、特に校長の小林宗作先生は、黒柳徹子さんに会うたびにいつも「君は本当はいい子なんだよ」と優しく声をかけてくれたそうです。

天真爛漫ゆえに、失敗も多かったという黒柳徹子さんにとって、小林宗作先生の言葉はなにより自信になったそうです。 現在の、興味があることに何でもチャレンジする性格は、この先生との出会いにより育まれたのでしょうね。

幸せな暮らしから一変 つらい戦争体験も

4人兄弟の長女でもある黒柳徹子さん。実はすぐ下の弟、黒柳明児さんは子供のころに敗血症で亡くなっています。

仲がよかった弟の突然の死に、悲しみのあまり、弟が生きていたころの記憶がほとんどないそうです。

明児さんが亡くなった後、すぐに父親の黒柳守綱さんは出征。黒柳徹子さんは家族に連れられ青森に疎開すると、それまでの暮らしが一変したといいます。

ユニセフでスマトラ沖地震の被災者支援に現地を訪れた黒柳徹子さん 2005年

弟の死を悲しむ間もないまま、過酷な戦争を体験した黒柳徹子さん。長年ユニセフ親善大使として何度も危険な紛争地域を訪問し、子供もたちへの熱心な支援活動を行ってきました。

自身のつらい体験があるからこそ、苦しみを抱える人々の気持ちを理解し、寄り添えるのかもしれませんね。

黒柳徹子はテレビ女優第1号 意外すぎるNHKの志望理由とは

戦後、オペラ歌手を目指して東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業しますが、途中であきらめて女優を志します。その理由はなんと、「人形劇のできるお母さんになりたい」と思ったからだそう。

1953年、NHKが募集していたTVの専属俳優に応募した結果、見事合格。その後、NHK東京放送劇団に入団し、TV女優の第1号としてデビューしました。

駆け出しのころは、独特の話し方や個性が強すぎるといわれることもあり、大変悩んでいたとか。著書『トットチャンネル』の中でNHKに応募した経緯やデビュー当時のことを詳しく語っています。

インタビューを受ける黒柳徹子さん 1963年

しかし、自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(NHKラジオ)で、三男・トン坊役に抜擢されると、個性的な話し方が面白いと評価され、子ども向け番組『ブーフーウー』(NHK)に出演。

以降も、さまざまなキャラクターの声を演じるようになります。

同時に『若い季節』(NHK)『夢であいましょう』(NHK)など当時の人気番組にも出演。多数のレギュラー番組を抱える人気女優になっていきます。

黒柳徹子は30代半ばでニューヨークに留学 その後マルチタレントへ

芸能界で忙しい日々を送っていた30代半ば、舞台での演技とダンスを学ぶために芸能活動を休止し、1年間ニューヨークへ留学します。

1年後にトーク番組『徹子の部屋』(テレ朝系)の前身番組の司会のオファーを受けて帰国するのですが、長期のブランクがあっても仕事は減らず、大ヒット音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)からオファーを受けるなど、司会の仕事も次々に舞い込みます。

『徹子の部屋』収録中の黒柳徹子さん 1963年

さらに随筆業でも才能を見せ、1981年に出版された幼少時代をつづった自叙伝『窓ぎわのトットちゃん』は、累計800万部を発行する大ヒット作となり、世界35カ国で翻訳されています。

黒柳徹子のインスタグラムが大人気! フォロワー数が凄い

TVや舞台の仕事以外にも、ユニセフ親善大使、日本パンダ保護協会名誉会長など、マルチに活動している黒柳徹子さん。

2016年には、『徹子の部屋』にゲスト出演したミュージシャンの福山雅治さんの提案を受けて、インスタグラムを開始しています。

日常の様子や、ファッション、お気に入りのアクセサリーなどの画像が日々投稿され、そのチャーミングでセンスあふれる世界観が大好評を得ています。フォロワー数はなんと100万人以上!

黒柳徹子の若いころの写真が可愛い! 当時のエピソードが心に響く

インスタグラムの中で、デビュー当時やニューヨーク留学時代など、若かりしころの貴重な写真をたびたび投稿しています。その姿はネット上でも話題に。

最近では、2018年6月13日に自身のインスタグラムを更新し、ニューヨークに滞在していた時の写真と当時のエピソードを投稿すると、大きな反響を呼びました。

ニューヨークに留学して1年が経過した時、もう1年とどまるか、帰国して司会者の仕事を受けるか悩んだ結果、帰国を決めた黒柳徹子さん。当時を振り返り、次のように語っています。

その時別れが辛かった人も、居なくはなかった。結婚も申し込まれたりもしていた。でも結局、私は仕事を選んだということになるのだろうか。将来を考えて。

Tetsuko Kuroyanagi ーより引用

女性が結婚することが当たり前だった時代。世間体ではなく、『本当に自分のしたいこと』を大切にした黒柳徹子さんの勇気が垣間見えます。

黒柳徹子のTシャツが話題に

黒柳徹子さんは以前から、Tシャツなどのオリジナルグッズを販売しています。

2018年7月のインスタグラムでは、本人いわく「40年ぶりに着た」というTシャツ姿を披露。

黒柳徹子さんが着たこちらのTシャツは、即売り切れになるほどの人気となりました(現在は再入荷済み)。

それから黒柳徹子さんは自身のTシャツ姿が気に入った様子。インスタグラムでTシャツを着た姿をたびたび投稿しています。

黒柳徹子には遠距離の恋人がいた! 気になる恋愛観は?

現在も独身の黒柳徹子さん。2017年9月27日に放送されたバラエティ番組『1周回って知らない話SP』(日テレ系)に出演し、40年以上交際していた遠距離恋愛の恋人の存在を明かしました。

その彼とは、年に1、2回しか会えないという限られた時間の中で交際をしていましたが、結婚をする前に亡くなってしまったため、結婚のタイミングを逃してしまったのだそう。

また、2017年8月26日に放送された『24時間テレビ』(日テレ系)では、恋愛の悩みを抱えるトランスジェンダーの若者に対して、自身の恋愛観を語っています。

いい恋愛をしてほしい。いい恋愛をすると、その人と別れても、その人が死んでも、いつまでたっても生きていくことができます。 一番大事なことは、その人が私をどういう人間としてみてくれるかです。

24時間テレビ ーより引用

黒柳徹子さんらしい、まっすぐな言葉。素敵な恋愛をしてきたからこそいえることではないでしょうか。

黒柳徹子の現在の活躍は?

黒柳徹子さんは、子供のころからオシャレや美しいものが大好き。ビーズや刺しゅうの施されたドレスや、アクセサリーなど数多くのコレクションを持っていて、インスタグラムでもよくお気に入りの品を投稿しています。

所属事務所の社長でもあり、ビーズ刺しゅうデザイナーの田川啓二さんとともに、展覧会『SU・TE・KI!展』を全国各地のデパートで開催したこともあります。

また夏には、自身が副理事長を務める東京フィルハーモニー交響楽団のハートフルコンサートの司会も務めます。

このコンサートは平和を願うコンサートとして終戦記念日である8月15日に毎年行われています。演奏の合間に挟まれる黒柳徹子さんの絶妙なトークを楽しみにしている人も多いのだとか。

個性的で純粋なキャラクターで愛されてきた黒柳徹子さん。

さまざまなことに好奇心を持って臆せず挑戦する姿に、心を打たれた人も多いのではないでしょうか。これからも素敵な姿を見せてほしいですね。


[文・構成/grape編集部]

出典
黒柳徹子 公式ホームページ トットちゃん1週回って知らない話24時間テレビ 愛は地球を救うtetsukokuroyanagi

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