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「写生のためなら生首すら拾う」江戸のパンク野郎・河鍋暁斎の人物像が強烈

By - grape編集部  公開:  更新:

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河鍋暁斎 《三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪》 明治 4-22(1871-89)年 紙本淡彩 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

幕末から明治期にかけて、数多くの日本画を残した江戸の天才絵師・河鍋暁斎。

卓越した絵の表現力、強烈な個性を発揮した日本画は、多くの人を魅了してきました。

河鍋暁斎 《動物の曲芸》 明治 4-22(1871-89)年 紙本着彩 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

ただ、この暁斎…実は人物像も凄い人なんです!

エピソードが強烈すぎる!

小さな頃から絵を好み、3歳の頃に初めてカエルを写生。絵に対する並々ならぬ執着を感じた父親により、7歳にして有名な浮世絵師・歌川国芳に弟子入りさせられます。

河鍋暁斎 《百鬼夜行図屏風》 明治 4-22(1871-89)年 紙本着彩、金砂子 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

絵の技術を国芳から学び育っていくものの、9歳にしてあり得ない伝説を作ってしまいます。

写生のために生首を持ち帰る

長雨が続き、増水した神田川の急流を写生しに出かけた時のこと。川上から生首が流れてきたそうです。

通常なら直視もできない恐ろしいものですが、暁斎は生首を写生をしようと、なんと家に持ち帰ってしまいます。

結局、首を元のところに戻すことを条件に、父親から写生を許可されますが、わずか9歳にしてこの探求心。あまりにも強烈なエピソードに、ただただ驚かされます。

河鍋暁斎 《幽霊図》 慶応 4/明治元-3(1868-70)年頃 絹本淡彩、金泥 イスラエル・ゴールドマン コレクション Israel Goldman Collection, London Photo:立命館大学アート・リサーチセンター

その後、国芳の自由すぎる行いや風紀の乱れが、暁斎に悪影響を及ぼすと心配した父親により、2年で国芳の元を離れます。

10歳になると、日本絵画史上最大の画派『狩野派』に入門することになります。更なる技術を磨いていきますが…師が変わっても暁斎の奇行は、止まることを知りませんでした。

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