美空ひばりの歌は今も生き続ける 墓前には花が By - grape編集部 公開:2019-06-26 更新:2019-11-15 美空ひばり Share Post LINE はてな コメント 俳優、歌手として活躍した美空ひばり(みそらひばり)さん。 『お嬢』の愛称で親しまれ、並ぶもののない素晴らしい歌で、男女問わず多くの人から支持されました。 そんな美空ひばりさんの名曲や家族、病についてといったさまざまな情報をご紹介します。 『愛燦燦』『柔』名曲ぞろい 美空ひばりの歌 美空ひばりさんは、『昭和の歌姫』と呼ばれます。ずば抜けた歌唱力は子供のころから発揮されていました。デビューしたのはわずか9歳という年齢で、1948年のことです。映画デビューを飾った作品は『踊る竜宮城』でした。 『東京キッド』で天才子役といわれる 美空ひばりさんが靴磨きの孤児を演じた映画が『東京キッド』です。同名の曲も発売しました。優しいメロディに夢のある歌詞をのせた曲である『東京キッド』は、戦後から復興しようとする人々の心の支えとなっています。 美空ひばりさんのヒット曲は多数にわたりますが、『リンゴ追分』『お祭りマンボ』などは令和になっても歌い継がれるメロディとなりました。 お祭りの様子を楽しく歌い上げる『お祭りマンボ』は、多数の歌手によってカバーされ、ジャニーズグループの『忍者』が『お祭り忍者』としてリメイクしたことでも知られます。 意外なことに、美空ひばりさんは学校の授業では音楽が苦手だったそう。学校では「『コブシ』を効かせて歌うことができないから」だといいます。 『柔』は東京オリンピックと共に 美空ひばり 1965年 「もはや戦後ではない」といわれてから約10年後、1964年に東京オリンピックが開催されました。同じ年に発売された美空ひばりさんの曲が『柔(やわら)』です。 昭和の東京オリンピックにおいて、初めて『柔道』が正式競技として採用されたこともあり、『柔』は大ヒットしました。 産経新聞によれば、『柔』は平成31年までに195万枚を売り上げ、美空ひばりさんの発売した曲の中でも出荷枚数第2位となっています。 美空ひばりは演歌だけじゃない 美空ひばりさんがリリースした中でも異色の曲が『真赤な太陽』でしょう。『真赤な太陽』は1967年に出たポップスです。 リズム感のよい曲調は『柔』や『リンゴ追分』のイメージとは全く違い、幅広いジャンルの曲を歌いこなせる美空ひばりさんが天才である証明となりました。 また、『真赤な太陽』で美空ひばりさんは真っ赤なミニスカートをはいてゴーゴーダンスを踊るという意外な一面を見せ、話題に。 美空ひばりさんは歌謡曲や演歌だけでなく、『A列車で行こう』や『イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン』といったジャズのスタンダード・ナンバーも軽やかに歌いこなしています。 美空ひばりの夫はあの大スター! 弟や息子は? 美空ひばりさんは、1962年に俳優で歌手の小林旭さんと結婚しています。小林旭さんといえば、映画『ギターを持った渡り鳥』や『仁義なき戦い 代理戦争』で知られる大スター。 世紀のスター同士の結婚は世の中を沸かせました。しかし、結婚生活は短く2人は1964年に離婚しています。 美空ひばり・小林旭夫妻 1962年 美空ひばりさんは1964年にリリースした『悲しい酒』を歌う時、必ず涙をこぼすようになりました。小林旭さんとの別れが思い出されるのかもしれません。 美空ひばりさんの心を和らげたのは、弟・かとう哲也さんの実子である加藤和也さんを養子に迎えたことだといいます。 美空ひばりさんは加藤和也さんをたいへんに可愛がっていたそう。加藤和也さんの小学校の卒業式で歌を披露するほどでした。 晩年の名曲『愛燦燦(あいさんさん)』は、美空ひばりさんの豊かな人生そのものが表現された名曲です。息子・加藤和也さんによって、美空ひばりさんの心は満たされたのでしょう。 美空ひばりの死因は? 墓前にはいまでも花が 『川の流れのように』生きた歌姫 美空ひばりさんは、平成元年となる1989年に『川の流れのように』をリリース。生前最後となるシングルで、美空ひばりさんの最大のヒット曲となりました。CDも多数売れています。 『川の流れのように』について、美空ひばりさんの友人で俳優の中村メイコさんが次のように語りました。 (発売される前に2人で『川の流れのように』を聴いて)その時、ひばりさんがポツリといったんです。 「メイコ。綺麗な歌だけど、なんだか私が死んでいく歌みたいじゃない?」 (中略)だからこの歌は、わたしにとって“見送った歌”っていう感じ。 当時、美空ひばりさんは両側大たい骨骨頭壊死という難病と、肝硬変を患っていました。病をおして、東京ドームで『伝説』といわれたコンサートを開いています。コンサート名は『不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって』といい、内容を録画したDVDが販売されました。 美空ひばり 1988年 最後のメディア出演は1989年3月21日。自宅から放送したラジオ番組『ニッポン放送10時間ラジオ「美空ひばり、感動のこの一曲」』(ニッポン放送)が、歌姫の終わりを飾ることになります。 美空ひばりさんは同年6月24日、間質性肺炎により永眠しました。墓前には花が絶えることがないといいます。 死去しても慕われる美空ひばり 美空ひばりさんは、死後、女性初となる国民栄誉賞を受賞しました。墓は横浜市港南区の日野公園墓地にあります。命日には墓参をするファンも。 『昭和の歌姫』とたたえられた美空ひばりさんは、死してもなお影響を与え続けました。遺族は2014年に美空ひばりさんの住んでいた家を『東京目黒 美空ひばり記念館』としてオープン。 『東京目黒 美空ひばり記念館』では、2014年6月17日にアナウンサーの徳光和夫さんがラジオ番組『とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)をオンエアしています。 同番組では美空ひばりさんの生前の肉声や、息子・加藤和也さんをゲストに生放送を行い、ファンから絶賛されました。 2017年には、熊本地震と東日本大震災の復興支援チャリティーコンサートが行われています。さだまさしさんや『GENERATIONS from EXILE TRIBE』といった世代を超えたアーティストが集まり、美空ひばりさんの曲を歌いました。 【チケット好評発売中!】『美空ひばり生誕80周年記念 だいじょうぶよ、日本!ふたたび 熊本地震・東日本大震災復興支援チャリティーコンサート』日程:2017年4月5日(水)17:30~(東京ドーム)詳細→https://t.co/0OIhi2QYRL pic.twitter.com/GqgXdSZw7p— ひばりプロダクション(美空ひばり) (@HibariOfficial) 2017年3月16日 美空ひばりさんは、平成をすぎ令和となっても素晴らしい歌で日本音楽史に残る存在となりました。これからも美しい歌声はスタンダードナンバーとして、響き続けることでしょう。 美空ひばりプロフィール 本名:加藤和枝 生年月日:1937年5月29日 没年:1989年6月24日(享年52歳) 出身地:神奈川県横浜市磯子区滝頭 所属事務所:ひばりプロダクション 神奈川県横浜市に生まれる。ずば抜けた歌唱の才能を持つ。『河童ブギウギ』でレコードデビューし、数々の名曲を世に残す。精華学園高等部卒業。江利チエミ、雪村いづみとともに『3人娘』といわれる。ラジオ番組『とんねるずのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に飛び入りで参加、2時間ジャックするという茶目っ気もあった。第7回日本レコード大賞グランプリ、日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞。 [文・構成/grape編集部] 出典 美空ひばり公式ウェブサイト/@HibariOfficial Share Post LINE はてな コメント
俳優、歌手として活躍した美空ひばり(みそらひばり)さん。
『お嬢』の愛称で親しまれ、並ぶもののない素晴らしい歌で、男女問わず多くの人から支持されました。
そんな美空ひばりさんの名曲や家族、病についてといったさまざまな情報をご紹介します。
『愛燦燦』『柔』名曲ぞろい 美空ひばりの歌
美空ひばりさんは、『昭和の歌姫』と呼ばれます。ずば抜けた歌唱力は子供のころから発揮されていました。デビューしたのはわずか9歳という年齢で、1948年のことです。映画デビューを飾った作品は『踊る竜宮城』でした。
『東京キッド』で天才子役といわれる
美空ひばりさんが靴磨きの孤児を演じた映画が『東京キッド』です。同名の曲も発売しました。優しいメロディに夢のある歌詞をのせた曲である『東京キッド』は、戦後から復興しようとする人々の心の支えとなっています。
美空ひばりさんのヒット曲は多数にわたりますが、『リンゴ追分』『お祭りマンボ』などは令和になっても歌い継がれるメロディとなりました。
お祭りの様子を楽しく歌い上げる『お祭りマンボ』は、多数の歌手によってカバーされ、ジャニーズグループの『忍者』が『お祭り忍者』としてリメイクしたことでも知られます。
意外なことに、美空ひばりさんは学校の授業では音楽が苦手だったそう。学校では「『コブシ』を効かせて歌うことができないから」だといいます。
『柔』は東京オリンピックと共に
美空ひばり 1965年
「もはや戦後ではない」といわれてから約10年後、1964年に東京オリンピックが開催されました。同じ年に発売された美空ひばりさんの曲が『柔(やわら)』です。
昭和の東京オリンピックにおいて、初めて『柔道』が正式競技として採用されたこともあり、『柔』は大ヒットしました。
産経新聞によれば、『柔』は平成31年までに195万枚を売り上げ、美空ひばりさんの発売した曲の中でも出荷枚数第2位となっています。
美空ひばりは演歌だけじゃない
美空ひばりさんがリリースした中でも異色の曲が『真赤な太陽』でしょう。『真赤な太陽』は1967年に出たポップスです。
リズム感のよい曲調は『柔』や『リンゴ追分』のイメージとは全く違い、幅広いジャンルの曲を歌いこなせる美空ひばりさんが天才である証明となりました。
また、『真赤な太陽』で美空ひばりさんは真っ赤なミニスカートをはいてゴーゴーダンスを踊るという意外な一面を見せ、話題に。
美空ひばりさんは歌謡曲や演歌だけでなく、『A列車で行こう』や『イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン』といったジャズのスタンダード・ナンバーも軽やかに歌いこなしています。
美空ひばりの夫はあの大スター! 弟や息子は?
美空ひばりさんは、1962年に俳優で歌手の小林旭さんと結婚しています。小林旭さんといえば、映画『ギターを持った渡り鳥』や『仁義なき戦い 代理戦争』で知られる大スター。
世紀のスター同士の結婚は世の中を沸かせました。しかし、結婚生活は短く2人は1964年に離婚しています。
美空ひばり・小林旭夫妻 1962年
美空ひばりさんは1964年にリリースした『悲しい酒』を歌う時、必ず涙をこぼすようになりました。小林旭さんとの別れが思い出されるのかもしれません。
美空ひばりさんの心を和らげたのは、弟・かとう哲也さんの実子である加藤和也さんを養子に迎えたことだといいます。
美空ひばりさんは加藤和也さんをたいへんに可愛がっていたそう。加藤和也さんの小学校の卒業式で歌を披露するほどでした。
晩年の名曲『愛燦燦(あいさんさん)』は、美空ひばりさんの豊かな人生そのものが表現された名曲です。息子・加藤和也さんによって、美空ひばりさんの心は満たされたのでしょう。
美空ひばりの死因は? 墓前にはいまでも花が
『川の流れのように』生きた歌姫
美空ひばりさんは、平成元年となる1989年に『川の流れのように』をリリース。生前最後となるシングルで、美空ひばりさんの最大のヒット曲となりました。CDも多数売れています。
『川の流れのように』について、美空ひばりさんの友人で俳優の中村メイコさんが次のように語りました。
(発売される前に2人で『川の流れのように』を聴いて)その時、ひばりさんがポツリといったんです。
「メイコ。綺麗な歌だけど、なんだか私が死んでいく歌みたいじゃない?」
(中略)だからこの歌は、わたしにとって“見送った歌”っていう感じ。
当時、美空ひばりさんは両側大たい骨骨頭壊死という難病と、肝硬変を患っていました。病をおして、東京ドームで『伝説』といわれたコンサートを開いています。コンサート名は『不死鳥~翔ぶ新しき空へ向かって』といい、内容を録画したDVDが販売されました。
美空ひばり 1988年
最後のメディア出演は1989年3月21日。自宅から放送したラジオ番組『ニッポン放送10時間ラジオ「美空ひばり、感動のこの一曲」』(ニッポン放送)が、歌姫の終わりを飾ることになります。
美空ひばりさんは同年6月24日、間質性肺炎により永眠しました。墓前には花が絶えることがないといいます。
死去しても慕われる美空ひばり
美空ひばりさんは、死後、女性初となる国民栄誉賞を受賞しました。墓は横浜市港南区の日野公園墓地にあります。命日には墓参をするファンも。
『昭和の歌姫』とたたえられた美空ひばりさんは、死してもなお影響を与え続けました。遺族は2014年に美空ひばりさんの住んでいた家を『東京目黒 美空ひばり記念館』としてオープン。
『東京目黒 美空ひばり記念館』では、2014年6月17日にアナウンサーの徳光和夫さんがラジオ番組『とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)をオンエアしています。
同番組では美空ひばりさんの生前の肉声や、息子・加藤和也さんをゲストに生放送を行い、ファンから絶賛されました。
2017年には、熊本地震と東日本大震災の復興支援チャリティーコンサートが行われています。さだまさしさんや『GENERATIONS from EXILE TRIBE』といった世代を超えたアーティストが集まり、美空ひばりさんの曲を歌いました。
美空ひばりさんは、平成をすぎ令和となっても素晴らしい歌で日本音楽史に残る存在となりました。これからも美しい歌声はスタンダードナンバーとして、響き続けることでしょう。
美空ひばりプロフィール
本名:加藤和枝
生年月日:1937年5月29日
没年:1989年6月24日(享年52歳)
出身地:神奈川県横浜市磯子区滝頭
所属事務所:ひばりプロダクション
神奈川県横浜市に生まれる。ずば抜けた歌唱の才能を持つ。『河童ブギウギ』でレコードデビューし、数々の名曲を世に残す。精華学園高等部卒業。江利チエミ、雪村いづみとともに『3人娘』といわれる。ラジオ番組『とんねるずのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に飛び入りで参加、2時間ジャックするという茶目っ気もあった。第7回日本レコード大賞グランプリ、日本歌謡大賞放送音楽特別賞受賞。
[文・構成/grape編集部]