新1000円札の顔! 北里柴三郎は情熱的な『炎』の星だった!?
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スポーツ選手や大手企業の経営者、歴史的に名を残す『偉人』たち。
彼らが成功を納めた裏には、さまざまなドラマが隠れているものです。
この記事では四柱推命鑑定士である筆者が、そんな『偉人』たちの人柄を鑑定。
その人の人生を振り返りながら、成功の秘密を探って行きたいと思います。
筆者が占ってみる偉人は…北里柴三郎さん!
2024年から発行される、新1000円札の顔としての起用が決定したことで再び世間で脚光を浴びました。
みなさんの中にも、学校の授業などで国内外での伝染病予防と治療に貢献した世界的な細菌学者として、耳にした人も多いのではないでしょうか。
それでは北里さんの人生を四柱推命に基づいて振り返ってみましょう。
北里柴三郎さんは情熱的な『炎』の星
細菌学の分野で多大な功績をあげた、北里さんの誕生日は1853年1月29日。
四柱推命によると、北里さんは情熱と行動力ですべてを動かすアクティブな『炎』の星です。
『炎』の星の性格的には、明るく元気で、行動的。常に輪の中心にいて人が集まる星回りといえるでしょう。
また、特徴はとにかく熱いということ!特に人と関わる仕事など、人の役に立つことが大好きです。
一方、炎が揺らぐように感情起伏が激しいのも特徴。
感性も強いのでいろいろなことにアンテナを張り巡らせています。そのため、創作や芸術活動も得意な星といえます。
筆者がこれまでみてきた『炎』の星の人たちの中は、お笑いタレント、営業職の人、飲食店の経営者、ピアニスト、助産師、看護師などがいました。
そういう意味で、北里さんは研究者というよりも、行動力と直感でいろいろな未知なるものを生み出すアーティストのような気質をもっているといえます。
軍人を目指すも、恩師に出会い医学の道へ
北里さんはどのような人生を歩んできたのでしょうか。
1871年、北里さんは18歳で古城医学所兼病院(現、熊本大学医学部)に入学。軍人を志していましたが、恩師に出会い医学の道を目指すことなりました。
※写真はイメージ
四柱推命をみると1871年は『炎』の星にとって転換期となる運気が入ってきます。
自分の本質を見つめ直すきっかけになるいい運気です。
『炎』の星はもともと行動力と明るさが肝。
いろいろなことに興味を持つので、集中力が散漫になり、やりたいことをみつけにくいという欠点がありますが、18歳の転換期できちんと自分の道を見つけられたのはさすがです。
ある人との出会いをきっかけに、数々の偉業を残す
その後、北里さんは32歳でドイツに留学。そこで、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに出会い研究に勤しみます。
この頃になると、『炎』の星に油が注がれたようにさらに情熱が燃え上がります。
『炎』の星の人は、芸術家気質の持ち主。極めた医学という分野の中でさらに何かを生み出したかったのでしょう。
ただ、このような闘争心が生まれてくる時には、抑えて、冷静に支持してくれる人が必要です。
その点、師事したローベルト・コッホは、冷静で、こまやかで綿密な研究が得意な人だったようです。
北里さんの溢れんばかりの情熱と、コッホの的確な指示があったからこそ、研究は何倍もの相乗効果を生み出すことができたのかもしれません。
やはり、自分の技量だけではなく、的確に外部から必要な人材を呼び寄せる。卓越した運命の持ち主といえますね。
そしてついに36歳にして世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功。
さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、破傷風血清療法を確立しました。
この偉業により、一躍世界に名を轟かせることになったのです。
※写真はイメージ
当時の彼は運勢的に自らのエネルギーの矛先を新しい物事に求める傾向が強くなっていました。
実際に、帰国後まもなく日本初の伝染病研究所の設立。
1894年には香港で蔓延したペストの原因調査をし、ペスト菌を発見しました。
持ち前の『炎』らしい性格で、後輩たちの教育にも貢献
伝染病研究所が内務省から文部省へ移管したことをきっかけに、北里さんは1914年に新たな研究機関『北里研究所』を創立。
ここで多くの優秀な弟子を輩出し、若い世代への教育面でも大きく貢献しました。
この時期も彼にとってはやりたいことがあふれ出ている時期。今までの北里さんの集大成を「ここでまた作りたい」と考えたのでしょう。
さらに1917年には慶應義塾大学医学部医学科を創設。
医学団体や病院の設立などにも積極的に従事するなど、医学の礎を築く、大きなきっかけを与えています。
1931年6月13日に78年の人生の幕を閉じた北里さん。
彼の情熱は後輩たちを優秀な研究者になるよう導き、日本に偉大な功績を残す結果になりました。
[文/キジカク・構成/grape編集部]