バ美肉同士の純愛を描く『VRおじさんの初恋』 暴力とも子さんが込めた想いとは
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――『VRおじさんの初恋』はいろいろなところからインスピレーションを得ているように思いました。例えば宮沢賢治さんの小説『銀河鉄道の夜』や、松本零士さんの漫画『銀河鉄道999』など…。
暴力さんは、あとがきで「多くのロスジェネにこの物語が届けばと願ってやみません」といっていましたが、葵の年齢にもっと近い、若い世代にも読んでほしいという願いもあるのでしょうか。
というのも、葵は『銀河鉄道999』の車掌さんにとても似ている制服を着ていて、ホナミとナオキの旅(旅立ち?)を見届ける立場なので。ホナミとナオキは旅の経験が豊富なメーテルと哲郎にも似ているように感じています。
©暴力とも子|©一迅社
葵の服装が車掌に似ているという指摘に驚きました。その通りです。葵は物語内での位置付けとして、ホナミとナオキの関係性の行く末を見届ける役目を持っているため、そこから着想を得ています。
現実の日本の車掌の衣装をベースに、少し昔の日本の和装デザインもブレンドしています。これは葵が近年のゲーム『艦隊これくしょん』や『刀剣乱舞』からインスピレーションを受けていることが理由です。
葵は『銀河鉄道999』を見たことはありませんが、メタ的な意味では『999』の車掌さんのイメージも合わせています。
ナオキとホナミの関係は、哲郎とメーテルの関係もイメージの源泉に含まれていますし、ジョバンニとカンパネルラの関係性も重ねています。それら過去の偉大な作品へのリスペクトが含まれています。
――もう1つ気になる点がありました。『世界の果てまでの終末旅行』という設定や、世界を記録する眼鏡を介した世界、最後にオーストラリアのエアーズロックが見える場面など、もしかしてヴィム・ヴェンダースの映画『夢の涯まで』から着想を得ているのでしょうか。
また、暴力さんは映画『グラン・トリノ』に言及していましたが、ホナミの顔はクリント・イーストウッドの面影があるのでしょうか?
©暴力とも子|©一迅社
恐縮ながら『夢の涯まで』は未見でした。ただ、読者の中にはヴィム・ヴェンダースを想起した方がいらっしゃったので、通じるところはあるのかと思います。ぜひ映画を見てみようと思います。
SF作品の文脈では意識した作品がいくつかあります。1つは、コントロールできない宇宙船で宇宙の果てに巻き込まれてゆく小説『タウ・ゼロ』。
そして、宇宙の広大さと人間の関係性を愛で紡いだSF映画『コンタクト』。さらにブラックホールの先に何があるのかを描いた映画『インターステラー』には、世界の果てのイメージ作りの上で大きな影響を受けています。
確かにホナミにはクリント・イーストウッドっぽい雰囲気があるかもしれませんが、これは狙ったものではなく「日本人の感覚だと少し外国人っぽい雰囲気の顔つき」という設定に基づくキャラデザインでした。
なので偶然といえば偶然ですが、意識下では想像していたのかもしれません。
――『世界の終わりのマーク』がとても興味深いです。電車は土星の輪を走っていますが、土星は西洋占星術では『晩年』、時間の経緯、または死と生まれ変わりを意味するそうです。『世界の終わりのマーク』は、土星を簡略化しているように見えました。
また、遠くから見た時は禁止のマーク(斜め右)でしたが、11話で実際にその場所へ辿り着いた場面では空集合(斜め左)に変わっています。これは意図的なのでしょうか?
©暴力とも子|©一迅社
©暴力とも子|©一迅社
前述のとおり、大きなイメージ元はインターステラーで描かれた(比較的最近の研究に基づく)ブラックホール像です。
ただ、これは科学的な裏付けを付与する意図ではなく、ビジュアルイメージとして「より神秘性を感じられるものにしたい」という狙いのほうが強いです。その中には「土星っぽくも見える」ことも含んではいました。
占星術の『晩年』については初めて知りましたが、土星が生と死を司るものであることは少し意識していました。第1部5話では実際に土星を散歩するシーンがあります。
『世界の終わりのマーク』が11話(単行本では12話)で見え方が変わる件については、象徴性は含んでいません。遠くから見ていた時には立体的で輝きも強く見えていたものが、間近になると途端に平面的になり、少し不気味な印象になるように絵作りしています。
ただ、指摘を受けて見てみると、たしかに禁止マークが空集合マークに変化したようにも読みとれて「面白いな」と感じました。
作中に登場はしないものの、世界の果てを作ったキャラクターが設定上存在するのですが、作者である私もあずかり知らぬところで、未登場のキャラクターが何かを含めたのかも…と考えると面白いですね。
――暴力さんは「次もできればVRで女性が男性の姿になる作品を作りたい」とおっしゃっていましたが、その構想は続いているのでしょうか?
はい、次回作の構想は続いています。『VRおじさんの初恋』第1部執筆後に構想していたもので、女性がVRで男性の姿を得る物語です。
『VRおじさんの初恋』に比べると、もっとキャラがアグレッシブに動き、かつ、より現実社会の出来事を直接含んだものになりそうです。
単純に男女をひっくり返すのではなく、描くテーマも変わる予定です。とはいえ同じ人間が作る作品なので何らか共通の雰囲気は出るとは思います。
まだ構想段階ですので、『VRおじさんの初恋』がどのように世間に受け入れられたかも、次回作の方向性に多少は影響してくると思います。引き続き『VRおじさんの初恋』を応援していただければ嬉しいです。
――最後に、作中で「体が変われば心が触れ合う場所も変わる」という印象的なセリフがありますが、これはVRの恩恵だと思いました。暴力さんにとってのVRは、『より多く触れ合える可能性を与えてくれるもの』だと思いますか?
©暴力とも子|©一迅社
可能性は間違いなく与えるものだと思います。
特にこのコロナ禍において、現実で会えない人たちがVRという、より現実の感覚に即した技術を持ってコミニュケーションを築くことには大きな意味があると思っています。
PC知識に乏しい一般の人たちが気軽に扱えるようになるには、技術的に超えなければいけない壁がまだまだ多くあるとは思いますが、どこかのタイミングで複数の技術が急に収縮して文化になるのが世の常です。
ゲーム機が、インターネットが、iPhoneが登場した時のように、どんな技術も「いつの間にか当たり前になっている」のだろうと思います。
ですが私個人は、可能性は可能性でしかなく、幸福がイコールになることを必ずしも意味しないとも考えています。可能性とは、いい換えれば選択肢でしかありません。
VRに誰もが気軽にアクセスできるようになった時、自分の姿をスキャンして、現実をそのまま持ち込むこともできるかもしれない。あるいは自分と真逆の姿で、新しい自分としてVRを楽しむこともできるかもしれない。どちらがその人にとってより明るい未来をもたらすものなのか?
今VRを楽しんでいる人たちは、技術に対するリテラシーが高く、価値観の転換を楽しむことができる好奇心おう盛な人です。でも、どんな技術も一般化すると、ある段階で急に普遍性を求め始めます。
今やTwitterもかつてのような自由で粗雑な雰囲気はなりをひそめ、道徳的な正しさを意識してメッセージを発信しないと、とがめられる時代になりました。
VR世界も触れる人口が増えれば、いずれはそのように社会性の侵食と切り離せなくなる時がくると思っています。そうなった時、現実の自分とかけ離れたアバターを使うことがどのくらい許容されるのか…私はそれに強い興味を持っています。
――VR、特にVRChatで『お砂糖(バーチャルでパートナー関係を築くこと)』文化が定着しつつあるようです。「現実より軽い感覚で恋愛経験ができるという認識が広まっている」という意見もあります。
もしそうだとしたら、暴力さんがナオキとホナミの関係に持たせたかった特別性が遜色されるという懸念はあるでしょうか?
先の回答と少し重なる話になりますが、私個人は『お砂糖』文化について、まだVRに触れている人が少数派だから成立しやすい…という要素があるのではないかと考えています。
コミュニティ内での恋愛効率を高めるために、ユーモアや多少の強引さをもって恋愛の敷居を下げる…という行動は男女問わず少数のグループ内で自然発生しやすく、それが大人数になってくるといわゆるカースト化に変化してゆく…その過渡期の文化という側面もあるのかなと。
ただこれは私自身のなんとなくの感覚でしかないです。もしかしたらVR内では性別を問わないカジュアルな恋愛がメジャー化していくのかもしれないですし、別れについても『お塩』というユーモアワードをまぶすことでダメージを軽減する、新しいコミニュケーションテクニックなのかもしれません。
これから先のことは観察し続けないと分からないというのが本音です。
前置きが長くなりましたが、ナオキとホナミの恋愛はVRという奇抜な題材を借りてはいるものの、その本質は「社会の両端にいる者同士が、奇跡のようなきっかけで出会い、互いの心の深淵に触れた」という、ある意味非常に古典的な恋愛物語の構造になっています。
ナオキはグレゴリー・ペックではなく、ホナミはオードリー・ヘプバーンではありませんが、ある意味ではそのようにも見える物語だと思っています。
また、この作品の第2部を掲載していただいた一迅社の編集内部ではドラマ『余命1ヶ月の花嫁』や映画『8年越しの花嫁 奇跡の実話』などの作品にも通じるところがあると話題になっていたと聞きました。
『VRおじさんの初恋』は設定こそ複雑ですが、根本はシンプルな恋愛ものなので、今後、社会がどういう形に変化したとしても、読んで得られる感覚はいい意味であまり変わらないのではないかと考えています。
現実であっても、VRであっても、関係性を作るのは結局個人と個人なので、そこに上も下もなく、有利も不利もない。ただ、ナオキとホナミには、あの時あのタイミングでだけ成し得た関係性があった…というように作者としては考えています。
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[文・構成/grape編集部]