「日本のことを忘れないで」 3.11で日本のために尽力してくれたシンディ・ローパーの素顔 By - grape編集部 公開:2016-08-03 更新:2018-08-23 シンディ・ローパーニッポン放送東日本大震災湯川れい子 Share Post LINE はてな コメント 2011年3月11日に起きた東日本大震災。日本が混乱と不安に包まれる中、いち早く日本のために行動を起こしてくれた女性がいました。 世界中で愛されるシンガー、シンディ・ローパーです。ファーストアルバムは全世界で800万枚以上のセールスを記録し、今なお音楽業界の第一線で活躍しています。 震災から5年が経った今でも、当時の彼女の行動に多くの賞賛の声がよせられるほど、日本に大きな影響を与えました。 そんなシンディの姿を間近で見続けてきた、彼女のマブダチであり、音楽評論家でもある湯川れい子さんに、当時の様子を伺いました。 元々、親日家として知られていたシンディは、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、日本を勇気付ける行動を起こします。 地震発生時、ツアーのために日本行きの飛行機に乗っていたシンディ。直後から福島で起きた原発事故の情報はアメリカにも、彼女のツアーに同行していたメンバーの耳にも入りました。 メンバーの中からは帰国を望む声が上がり、翌日には彼女自身にもアメリカに住む家族から、安否を確認する連絡が入ったと言います。 特に、シンディの息子はまだ幼かったため、すぐにでもアメリカへ戻り、家族を安心させたいという思いも、少なからずあったはずです。 しかし、そんな中でもシンディは自ら日本に残ることを決意したのです。 自ら募金箱をもち、会場に立つ シンディは素早く行動を起こします。なるべく電力の使用を控えつつ、日本でのツアーを実施。さらには、自ら募金箱の設置も提案し、率先して日本の復興支援のために動きました。 出典:産経新聞社 当時は、コンサートを開くことに対して「電力の問題や心情的な問題などから否定的な意見が多かった」と湯川さんは語ります。 そんな世間の声にもひるむことなく、シンディは必死の思いでコンサートを開き、なおかつ募金まで呼びかけてくれたことで、どれだけの人が勇気付けられたことでしょう。募金の際には、感動で涙する人や感謝の気持ちをハグで表す人が多くいたそうです。 「自分の人生は、自分で選びなさい」 ――シンディさんの身を心配する声が多く寄せられる中、なぜ彼女は日本に残る決意をしたのでしょうか? 「シンディが息子とご主人とも電話で話して『自分の人生だから自分で選びなさい』と言われたそうです」 続けてこう語ります。 「『こんな時に私にできることは、友達に背中を向けることではなくて、友達のために歌うことだ』って。あんまりにもかっこよくて、私の方が背中を押されたような気分になりました」 彼女の言葉の裏には、自分自身を奮い立たせる意味もあったのではないでしょうか。自分の信じた道に突き進む凛とした姿勢に、彼女の芯の強さを感じさせます。 2012年再来日したシンディさん 「また戻って来る!」と誓って日本を後にしたシンディは翌2012年、約束通り、湯川さんと共に被災地を訪れます。 現地では、津波の被害にあった石巻の大街道小学校を訪問し、子どもたちと実際に触れ合う場を設けました。 シンディすてき!震災後すぐの来日でも励まされました。 @watanabekodaira :#石巻 の大街道小学校で、子どもたちに桜の苗をプレゼントしたシンディ・ローパーさん。 pic.twitter.com/onuX1jRb— 島村 久美子 (@okkabakko) 2012年3月5日 その際に、シンディは「木を植えて育てるということは、復興や再生という意味がある」と桜の苗木をプレゼントすることを提案。10本の苗木は小学校の校庭で今も石巻の子どもたちと共に成長しています。 また、津波で流されてきた楽器の修復作業を行う楽器店『サルコヤ』を訪問した際には、シンディ自ら壊れたピアノを購入。そのピアノは2016年に石巻に完成する病院ロビーに寄贈されることが決まっています。 シンデイは井上さんが修復したピアノをポケットマネーで買って、石巻の市立病院が完成したら、ロビーに寄贈することになっています。@YoNakagawa: 感動!⇨シンディRT @yukawareiko: 津波をかぶって、お店の外で泥まみれpic.twitter.com/IuRRoyuiMn”— 湯川れい子 (@yukawareiko) 2015年1月19日 その後、東京に戻ったシンディは『日本外国特派員協会』での会見で、「日本のことを忘れないでほしいと訴えたかった」と被災地訪問の理由を説明。 率先して広告塔となり、被災地の現状を伝えてくれた彼女の勇姿を、私たち日本人は絶対に忘れてはいけません。 湯川さんの思い出に強く残るシンディの姿 ――翌年の訪問も含め、シンディと共に行動する中で、印象に残っているエピソードありましたか? 「震災後のツアーを終え、彼女が旅立つ時にメールが来ました。『本当にありがとう。私にこれだけのコンサートをやらせてくれた栄誉に感謝します』と」 自分が感謝していたにも関わらず、反対に感謝の言葉をもらった湯川さんは本当に驚いたと興奮した様子で語ります。そして、そのメールは今でも大事に保存してあるほど、強く心に残っているそうです。 ――シンディを、そこまで突き動かす原動力は一体どこにあるのでしょうか? 「彼女の人間力だと思います。彼女自身、30歳まで苦労してきました。だからこそ、音楽の力を信じてきたのでしょう。腹が据わっているんです」 湯川さんは、彼女の人間力についてこうも表現します。 「彼女が以前、アルゼンチンに訪れた際に空港の職員がストライキが起こして、飛行機が飛ばないことがあったんです」 「周囲が殺気立つ中、空港のマイクを手に取り、突然シンディが『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン』を歌い始めたんです。すると皆が、ニコニコしながら手拍子して踊り出して…その場が一気に和やかな雰囲気になったんです」 その時の映像が、YouTubeに公開されています。 「だからね、彼女はどの国だろうと関係なく、困っている人がいたら手を差し伸べる人間なんです」 母のような優しさと豊かな感性、そして女性的な芯の強さを合わせ持つ彼女だからこそ、実現できた日本への復興支援。真っ先に日本のために行動を起こしてくれたシンディには、本当に頭が下がります。 何よりも、シンディの姿を通して『あきらめないこと』『自分にできることを精一杯やり遂げること』が、いかに大切なことか教えてもらった気がします。 Share Post LINE はてな コメント
2011年3月11日に起きた東日本大震災。日本が混乱と不安に包まれる中、いち早く日本のために行動を起こしてくれた女性がいました。
世界中で愛されるシンガー、シンディ・ローパーです。ファーストアルバムは全世界で800万枚以上のセールスを記録し、今なお音楽業界の第一線で活躍しています。
震災から5年が経った今でも、当時の彼女の行動に多くの賞賛の声がよせられるほど、日本に大きな影響を与えました。
そんなシンディの姿を間近で見続けてきた、彼女のマブダチであり、音楽評論家でもある湯川れい子さんに、当時の様子を伺いました。
元々、親日家として知られていたシンディは、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、日本を勇気付ける行動を起こします。
地震発生時、ツアーのために日本行きの飛行機に乗っていたシンディ。直後から福島で起きた原発事故の情報はアメリカにも、彼女のツアーに同行していたメンバーの耳にも入りました。
メンバーの中からは帰国を望む声が上がり、翌日には彼女自身にもアメリカに住む家族から、安否を確認する連絡が入ったと言います。
特に、シンディの息子はまだ幼かったため、すぐにでもアメリカへ戻り、家族を安心させたいという思いも、少なからずあったはずです。
しかし、そんな中でもシンディは自ら日本に残ることを決意したのです。
自ら募金箱をもち、会場に立つ
シンディは素早く行動を起こします。なるべく電力の使用を控えつつ、日本でのツアーを実施。さらには、自ら募金箱の設置も提案し、率先して日本の復興支援のために動きました。
出典:産経新聞社
当時は、コンサートを開くことに対して「電力の問題や心情的な問題などから否定的な意見が多かった」と湯川さんは語ります。
そんな世間の声にもひるむことなく、シンディは必死の思いでコンサートを開き、なおかつ募金まで呼びかけてくれたことで、どれだけの人が勇気付けられたことでしょう。募金の際には、感動で涙する人や感謝の気持ちをハグで表す人が多くいたそうです。
「自分の人生は、自分で選びなさい」
――シンディさんの身を心配する声が多く寄せられる中、なぜ彼女は日本に残る決意をしたのでしょうか?
「シンディが息子とご主人とも電話で話して『自分の人生だから自分で選びなさい』と言われたそうです」
続けてこう語ります。
「『こんな時に私にできることは、友達に背中を向けることではなくて、友達のために歌うことだ』って。あんまりにもかっこよくて、私の方が背中を押されたような気分になりました」
彼女の言葉の裏には、自分自身を奮い立たせる意味もあったのではないでしょうか。自分の信じた道に突き進む凛とした姿勢に、彼女の芯の強さを感じさせます。
2012年再来日したシンディさん
「また戻って来る!」と誓って日本を後にしたシンディは翌2012年、約束通り、湯川さんと共に被災地を訪れます。
現地では、津波の被害にあった石巻の大街道小学校を訪問し、子どもたちと実際に触れ合う場を設けました。
その際に、シンディは「木を植えて育てるということは、復興や再生という意味がある」と桜の苗木をプレゼントすることを提案。10本の苗木は小学校の校庭で今も石巻の子どもたちと共に成長しています。
また、津波で流されてきた楽器の修復作業を行う楽器店『サルコヤ』を訪問した際には、シンディ自ら壊れたピアノを購入。そのピアノは2016年に石巻に完成する病院ロビーに寄贈されることが決まっています。
その後、東京に戻ったシンディは『日本外国特派員協会』での会見で、「日本のことを忘れないでほしいと訴えたかった」と被災地訪問の理由を説明。
率先して広告塔となり、被災地の現状を伝えてくれた彼女の勇姿を、私たち日本人は絶対に忘れてはいけません。
湯川さんの思い出に強く残るシンディの姿
――翌年の訪問も含め、シンディと共に行動する中で、印象に残っているエピソードありましたか?
「震災後のツアーを終え、彼女が旅立つ時にメールが来ました。『本当にありがとう。私にこれだけのコンサートをやらせてくれた栄誉に感謝します』と」
自分が感謝していたにも関わらず、反対に感謝の言葉をもらった湯川さんは本当に驚いたと興奮した様子で語ります。そして、そのメールは今でも大事に保存してあるほど、強く心に残っているそうです。
――シンディを、そこまで突き動かす原動力は一体どこにあるのでしょうか?
「彼女の人間力だと思います。彼女自身、30歳まで苦労してきました。だからこそ、音楽の力を信じてきたのでしょう。腹が据わっているんです」
湯川さんは、彼女の人間力についてこうも表現します。
「彼女が以前、アルゼンチンに訪れた際に空港の職員がストライキが起こして、飛行機が飛ばないことがあったんです」
「周囲が殺気立つ中、空港のマイクを手に取り、突然シンディが『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン』を歌い始めたんです。すると皆が、ニコニコしながら手拍子して踊り出して…その場が一気に和やかな雰囲気になったんです」
その時の映像が、YouTubeに公開されています。
「だからね、彼女はどの国だろうと関係なく、困っている人がいたら手を差し伸べる人間なんです」
母のような優しさと豊かな感性、そして女性的な芯の強さを合わせ持つ彼女だからこそ、実現できた日本への復興支援。真っ先に日本のために行動を起こしてくれたシンディには、本当に頭が下がります。
何よりも、シンディの姿を通して『あきらめないこと』『自分にできることを精一杯やり遂げること』が、いかに大切なことか教えてもらった気がします。