事故で両脚を切断 義足でも自転車に乗り続ける、藤田征樹選手の原動力とは?
公開: 更新:
ポツンと置かれた数枚の『紙袋』 その使い道に…「これは天才」「めちゃくちゃありがたい」新年が明けた同月上旬、東京都武蔵野市にあるショッピングモール『コピス吉祥寺』を訪れた、よしだけいすけ(@ruiji_31)。 施設内で見つけた『あるサービス』を発見し、Xに投稿すると、12万件以上の『いいね』が寄せられ、多くの注目を集めました。
地震の時には潜らないで! カワイピアノの注意喚起に「想像すると恐ろしい…」株式会社河合楽器製作所が運営する、カワイピアノのXアカウント(@Kawai_Japan)は、2025年1月17日、『あるお願い』を投稿。地震に関する注意喚起が、大きな反響を呼んでいます。
2008年の北京、2012年のロンドンと2大会続けてパラリンピックに出場、メダル獲得の快挙を成し遂げた障がい者自転車競技の藤田征樹選手。
両足が義足という障がいを持ちながらも、世界を舞台に活躍する不屈のパラサイクリストとして知られています。
藤田選手が両足を失ったのは2004年、19歳のとき。北海道の実家に帰省中に自動車事故で大けがを負い、切断を余儀なくされたのです。
当時、藤田選手は、進学先の大学で念願のトライアスロンを始めた直後でした。中高時代から陸上に親しみ、運動が大好きだった藤田選手にとって、両足切断はさぞや苦しい切断だったことでしょう。普通なら自暴自棄の状況に陥ってもおかしくはありません。
※画像はイメージです
しかし意外にも藤田選手は「お先真っ暗という感じではなかった」と当時を振り返ります。
というのも、事故の直前に偶然、テレビで義足ランナーの特集番組を見ていたから。
「自分もまたきっと歩けるようになるっていう根拠のない自信がありました。だからあまり落ち込まずに切断を受け入れることができました」という藤田選手。すばらしい前向き思考ですね。
そして切断からわずか3カ月後、訓練用の義足を装着した藤田選手は、思い切って自転車に乗ってみることに…。
「自転車にまたがってペダルに義足を載せた瞬間、自分の勘が間違ってなかったことを確信しました。義足でも自転車をこぐことに、あまり違和感がなかったのです」
そして懸命なトレーニングを続けた藤田選手は、事故から2年後の2007年には健常者のトライアスロン大会に出場、2008年の北京パラリンピックでは、初出場ながらトラック競技で銀と銅、計3つのメダルを獲得するという快挙を成し遂げたのです。
続く2012年のロンドン大会ではロード個人タイムトライアルで銅メダルを獲得、2015年には「UCIパラサイクリングロード世界選手権」で優勝し、世界的な自転車レースの優勝者のみが身に着けることを許される虹色のジャージ「アルカンシェル」を見事、手にしました。
※画像はイメージです
両足切断というハンディを超え、次々と快挙を成し遂げる藤田選手。その原動力について聞かれるたびに、藤田選手は「自分への挑戦だ」と答えています。
「自分自身のためにも、自分を支えてくれる人たちのためにも、自分で考えて自分で挑戦していかないといけない」
その言葉通り、藤田選手はトレーニングだけでなく自身の義足の改良にも自ら根気強く取り組んできました。義肢装具士と力を合わせて、効率よくペダルに力を伝えられる素材や形状を追求。10年もの月日を費やして理想の義足を作り上げたのです。
その義足を装着した藤田選手は、2016年も数々のレースに挑んでいます。障がい者レースだけでなく、健常者向けの一般レースにも挑戦する理由は何でしょうか?
「障がいの有無に関係なく、観る人を感動させる存在でありたいんです。一般のレースで僕が頑張る姿を見せることで、パラサイクリングがもっと広く知られるようになると嬉しい。さらにはパラサイクリングが特別なものではなく、ごく当たり前のスポーツとして社会に受け入れられるようになると、もっと嬉しいですね」
両足切断から12年。不屈の精神と地道な努力で成長を続ける藤田選手、次はどんな走りをみせてくれるのか。しっかり見届けたいですね!