坂本九さん司会『ワイドワイドサンデー』の懐かしい思い出 By - 押阪 忍 公開:2022-05-30 更新:2022-05-30 エッセイ押阪忍 Share Post LINE はてな コメント こんにちは、フリーアナウンサーの押阪忍です。 ご縁を頂きまして、『美しいことば』『残しておきたい日本語』をテーマに、連載をしております。宜しければ、シニアアナウンサーの『独言(ひとりごと)』にお付き合いください。 ラジオの思い出 その2 テレビやラジオ番組の司会や進行は、大旨(おおむね)、アナウンサーが務め、有名人や歌手はゲストとして呼ばれるのが、今でも主流ですが、昭和40年、1965年、逆転の発想でスタートした番組があります。 それが、当時日曜日お昼から夕方までニッポン放送で放送していた『ワイドワイドサンデー』です。 人気歌手の坂本九さんが ゲストではなく、司会進行をするという番組で、当時話題となりました。 大枠、東芝の提供だったかと記憶していますが、当方は『ラジオカー』で、東芝の電気製品が主流の東芝ストアーを廻って、お店からワイワイガヤガヤと生放送で参加するというお役目でした。 TBSラジオ、毒蝮三太夫さんで人気となったコーナーの、いわば『走り』だったと思います。 ラジオカーは、今では珍しいものではありませんが、当時は街中を走っているだけでも、人目につき、電気屋さんの前はもうかなりの人だかりでした。 「当店がニッポン放送に出ます。押阪忍さんが3時頃来ます」というような張り紙が派手に貼られ、お店に到着すると、かなりのお客さんが待っているという感じでした。 当方の出番は、3時半頃だったと思います。集ったお客さんとワイワイガヤガヤ…と…。 お店での放送が終り、帰りの車の中から夕焼け真近の空の景色や、人や車の流れを、スタジオの九ちゃんに伝えるというお役目もありました。 東芝ストアーでの、ワイワイガヤガヤ放送も楽しかったですが、夕暮前に交わす九ちゃんとの会話も、本当に懐かしい思い出となっております。 <2022年5月> フリーアナウンサー 押阪 忍 1958年に現テレビ朝日へ第一期生として入社。東京オリンピックでは、金メダルの女子バレーボール、東洋の魔女の実況を担当。1965年には民放TV初のフリーアナウンサーとなる。以降TVやラジオで活躍し、皇太子殿下のご成婚祝賀式典、東京都庁落成式典等の総合司会も行う。2022年現在、アナウンサー生活64年。 日本に数多くある美しい言葉。それを若者に伝え、しっかりとした『ことば』を使える若者を育てていきたいと思っています。 快挙を成し遂げた狩野英孝、帰国便の搭乗券をよく見ると… 「さすがJAL」の声ホノルルマラソンから帰国する狩野英孝さんに、JALが用意したサプライズとは…。 ロケで出会う人を「お母さん」と呼ぶのは気になる ウイカが決めている呼び方とは?タレントがロケで街中の人を呼ぶ時の「お母さん」「お父さん」に違和感…。ファーストサマーウイカさんが実践している呼び方とは。 Share Post LINE はてな コメント
こんにちは、フリーアナウンサーの押阪忍です。
ご縁を頂きまして、『美しいことば』『残しておきたい日本語』をテーマに、連載をしております。宜しければ、シニアアナウンサーの『独言』にお付き合いください。
ラジオの思い出 その2
テレビやラジオ番組の司会や進行は、大旨、アナウンサーが務め、有名人や歌手はゲストとして呼ばれるのが、今でも主流ですが、昭和40年、1965年、逆転の発想でスタートした番組があります。
それが、当時日曜日お昼から夕方までニッポン放送で放送していた『ワイドワイドサンデー』です。
人気歌手の坂本九さんが ゲストではなく、司会進行をするという番組で、当時話題となりました。
大枠、東芝の提供だったかと記憶していますが、当方は『ラジオカー』で、東芝の電気製品が主流の東芝ストアーを廻って、お店からワイワイガヤガヤと生放送で参加するというお役目でした。
TBSラジオ、毒蝮三太夫さんで人気となったコーナーの、いわば『走り』だったと思います。
ラジオカーは、今では珍しいものではありませんが、当時は街中を走っているだけでも、人目につき、電気屋さんの前はもうかなりの人だかりでした。
「当店がニッポン放送に出ます。押阪忍さんが3時頃来ます」というような張り紙が派手に貼られ、お店に到着すると、かなりのお客さんが待っているという感じでした。
当方の出番は、3時半頃だったと思います。集ったお客さんとワイワイガヤガヤ…と…。
お店での放送が終り、帰りの車の中から夕焼け真近の空の景色や、人や車の流れを、スタジオの九ちゃんに伝えるというお役目もありました。
東芝ストアーでの、ワイワイガヤガヤ放送も楽しかったですが、夕暮前に交わす九ちゃんとの会話も、本当に懐かしい思い出となっております。
<2022年5月>
フリーアナウンサー 押阪 忍
1958年に現テレビ朝日へ第一期生として入社。東京オリンピックでは、金メダルの女子バレーボール、東洋の魔女の実況を担当。1965年には民放TV初のフリーアナウンサーとなる。以降TVやラジオで活躍し、皇太子殿下のご成婚祝賀式典、東京都庁落成式典等の総合司会も行う。2022年現在、アナウンサー生活64年。
日本に数多くある美しい言葉。それを若者に伝え、しっかりとした『ことば』を使える若者を育てていきたいと思っています。