「僕が絶対お父さんを見つける!」母の涙を拭うため プロ野球を目指した、日隈ジュリアス
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渋谷陽一さんが逝去 音楽誌『rockin’on』を創刊2025年7月22日、『ロッキング・オン・グループ』(株式会社ロッキング・オン・ホールディングス、株式会社ロッキング・オン、株式会社ロッキング・オン・ジャパン)の代表取締役会長である、渋谷陽一さんが亡くなったことが分かりました。74歳でした。

経産省「大変危険です」 注意喚起に「知らなかった」「これは危ない!」2025年7月、経済産業省の製品事故対策室は、Xアカウントで「モバイルバッテリーを車内に放置しないでください」と、呼びかけました。
実はドラフト直前の2015年9月、父、フランクさんを発見したという連絡が。フランクさんは現在、アメリカ・カリフォルニア州にいるということでした。
お父さんからの手紙
Dear my son 親愛なる息子へ
ジュリアス、お前が人生の難しい決断をしなければならない時に一緒にいられなくてごめん。
でも、いつもお前のことを考えていたよ。
「ジュリアス」という名前の由来を知っているかい?私がお寺でお母さんに読んだ本から考えた名前なんだ。
また、お前に連絡ができるなんて思っていなかったよ。
海兵隊員だった私は、様々な戦場に派遣されて、アフガニスタンとイラクで2回の戦争を経験したんだ。その戦争で負傷して軍隊を辞めることになった。
メジャーリーグでプレーするというお前の夢が叶うことを祈っている。
いつか一緒にキャッチボールができるといいな。
お前が元気そうで嬉しいよ。自分の夢を叶えるために全力を尽くしてほしい。
私は父親としてお前の夢を現実のものにするために、出来るだけの支援をするつもりだよ。
ジュリアス、愛しているよ。
離ればなれで過ごした時間を、いつか取り戻せることを願っている。
2001年に起こった同時多発テロのあと、長い戦争に駆り出されたフランクさん。戦場で心と体に深い傷を負い、リハビリを余儀なくされていました。
戦争と訓練の繰り返しで、家族のことを考える余裕もない…。怪我で軍を辞めてからも「もう自分は家族に合わせる顔がない」と自らを責め続ける日々が続いたそうです。
夢はまだ終わりじゃない
母の苦労を知っているジュリアス投手は、父の発見を手放しで喜べる状況ではありませんでしたが、素直な気持ちを笑顔で語りました。
「存在していてくれただけで嬉しい。誰が何と言っても、僕のお父さんは世界で一人しかいない。ありがとうだけを伝えたい。」
ジュリアス君が、ずっと心の支えにしていた家族写真。フランクさんも同じように、家族の写真を心の支えに生きてきました。
「戦争で多くを失った。でも、この写真だけはいつも持っていたんだ。」そう語るフランクさんの手には、ジュリアス君、敦子さん、モンテル君の写真が。
写真を通して、互いを想い合っていた父フランクさんとジュリアス投手。これからは、会えなかった時間をゆっくりと埋めていきたいと語ります。
ジュリアス投手の次の夢は、日本を代表するピッチャーになること。最後にこれからの野球人生を力強く明言しました。
「20年間プロ野球でプレーすることが目標なので、それに向けて頑張っていきたいです。」
これだけの強い想いと、今までの努力はきっと報われるはずです。
ジュリアス投手が、一日でも早く一軍のマウンドで活躍されることを期待しています!ジュリアス投手、頑張ってください!