子育てで『正解』に苦しめられたら 保育者が大切にしたいこと【きしもとたかひろ連載コラム】
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- 出典
- 文化庁
Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
今回より、きしもとさんの連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』がスタートします。
子育てにまつわる悩みや、子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒すコラムをご紹介していきます!
第1回『なんでもない毎日に、はなまるを。』
「ペンの持ち方わたしとおなじやー」
一緒に絵を描いていた小学生から声をかけられた。その子の手元を見ると、親指がペンには沿わずにクロスしている。なるほど、不恰好なその持ち方は僕と同じだった。
子どもの頃によく「鉛筆の持ち方」を指摘されたのだが矯正されず、大人になってからは人前で字を書くときだけ「正確な持ち方」をするようにしている。
正確な持ち方は疲れにくいらしいけれど、僕にとっては不自然で、気をぬくと思いもしない方向にペンが動くため神経を使って書くぶん疲れた。
プルプル震える手では思った絵は描けないので、誰にも見られていない時は自然と自分の持ち方を続けていた。
声をかけてくれたその子も同じような経験をしているのか、「一緒やなあ」と返すと「うん、学校では先生に怒られんねん~」と腹立たしげに話してくれた。「わかるわ、僕も子どもの頃よく怒られたけど直らんかった」と共感すると「大人のくせに~」と笑っていた。
その屈託のなさが深刻さを感じさせず、それが逆に、このまま疑いなく矯正されて気づかぬうちに好きな絵が描けなくなるんじゃないか、と不安にさせた。僕は肯定してあげればよかったと後悔した。
学校の先生や保護者の方からは嫌がられるかもしれないけれど、“大人のくせに”同じ持ち方をしてる僕だけでも「君がその持ち方で描いたその絵が、君の絵やで」と伝えればよかったな、と。
とめはねよりも大切にしたいこと
本来「より良くするために」と決められたものが、逆に足かせとなってパフォーマンスが落ちるということはよくある。
鉛筆の持ち方と合わせて、「とめはね」についても厳しく注意された。漢字の書き取りの際に正確に「はらい」や「はね」ができていないと丸をもらえなかった。厳しく指導された結果育ったのは正確な字を書く力ではなく、正確に書けていない人に指摘する力の方だった。
学童に来ている子どもの宿題を覗き込んで、親切心で「とめはね」を指摘しては正しいことをした気分になっていた。
そんなある日、そのなんの役にも立たない肥大化した正義感が、いともあっさりと打ち砕かれる情報を仕入れる。
文化庁『常用漢字表の字体・字形に関する指針』によれば、漢字の字体・字形については、「その文字特有の骨組みが読み取れるのであれば、誤りとはしない」という方針だそうだ。しかも、僕が生まれる前から。いや、昭和24年からだから両親が生まれる前からだ。衝撃の事実だ。
あれだけ「ゆるぎない正義ですよ」と厳格な顔をして佇んでいたものが、実は「細かいことは気にしなさんな、読めたらええねんで」というゆるいスタンスだったのだ。よくもまあ偉そうにしていたものだ。
今まで僕が信じてきたものはなんだったんだ…。という気持ちが無くもないが、僕はそれを知って少し気持ちが軽くなったのを覚えている。綺麗に書けないときには気負わずに「読めたらええねん」と思って書けばいいのだと。
逆に余裕があるときには「読みやすいように」と丁寧に書くことを意識できるようになった。苦手な文章も、誤字があっても文脈で理解してもらえるかも、とも思えるようになった。肩の荷を下ろすと、気持ちが軽くなって結果的にパフォーマンスは上がる。
子育てにも「読めたらええねん」を
子育てや保育・教育でも、この「とめはね」のようなもの、言わば「正解のようなもの」が亡霊のごとくつきまとう。
おむつは布で、粉より母乳で、離乳食は手作りで、朝昼晩栄養のとれたものを、野菜も食べられて、お片づけができて、ゲームではなく本が好きで、電車では静かにして、店内では走り回らずに…。
全てが正しいわけではないのは知っているし、そんな完璧にはできないし、やらなくていいのは分かっている。けれど分かっていても、ほかの家庭や子どもや、自分が生きてきて膨れた理想と比べては引け目を感じてしまう。
どこかで、正しい子育てを目指して打ちのめされている。抜け出したくなるけれど容赦なく日常は続く。
だから、そんなときに思い出してみてはどうだろうかと思ったのだ。「読めたらええねん」を。
子育ての読めたらええねん、はなんだろう。「一日笑顔ですごせた」かな。いや、「今日も生きた」だけで十分なんじゃないか。最低限の及第点なんかじゃない。それで満点花マルなのだ。
そんな悠長なことは言ってられないよ、子どもの将来を考えるのも親や保育者の仕事だろう、と言われるかもしれない。無責任に可愛がるだけなら苦労しない。その通りだと思う。
ただ、子どもも大人もしんどくないように、大切なことを見失わないように、順番を整理したいということ。
歩けるようになった、言葉を発するようになった、それだけで感動していたのに、いつからか「できないこと」に目を向けている。ほかの子はできているのに、昨日までできていたのに、そんな想いに迫られて「なんでできないの」と怒っては、怒ってしまう自分をあとで責めてしまう。
けれど、大丈夫。「今日も生きた」と思ってみよう。誰かの力を借りてもいい、手を抜いてもいい、愛せなくてもいい。「泣いたりケガしたりしたけれど、今日も生きた」その積み重ねだけで毎日花マルだ。そうやって日々を過ごすなかで少し余裕ができたら「笑顔で過ごせた」で追加点だ。
そのときそのときに余裕ができた分だけ「より生きやすくなれば」と思って色んなことに目を向けていければいい。「より生きやすく」が増えすぎて息苦しくなったら、埋もれてしまった「読めたらええねん」を思い出す。そうやって繰り返していけたらいいなと思う。
文字や言葉は読むためだけにあるのではない。伝えるためにある。「こうでなければダメ」と教えられると、間違わないように間違わないようにとプレッシャーを感じながら取り組むことになる。
するとそのうち、伝えたいことよりも上手く書くことに力を注いでしまう。中身のない文章になってしまう。人の文章を読むときにも、内容ではなく文法の不自然さに目がいってしまう。
本当に大切なことは、なにを伝えたいかを書くことであり、なにを伝えようとしているのかを知ろうとすることだ。
「今日も生きた」と立ち返ることができたら、どんな風に育って欲しいと焦る気持ちを少し横に置いて、その子がどんな風に生きていてほしいか。そんなことを想像してみたい。
僕は物書きではないから、このコラムも、下手くそだと思われないか不安になりながら書いている。けれど、そんな時こそ「読めたらええねん」と信じてみる。
そうして肩肘張らずに書いたものを面白いと思ってもらえたなら、少し心に余裕ができて「もう少し伝わるように」と句読点の打ち方を調べてみるかもしれない。決して手を抜くわけではない。開き直ることも自己満足にもしたくない。
けれど「こんなんじゃダメだ」と思ってしまいそうになったときに、「読めたらええねん」と言い聞かせて足を止めずに進んでいけたらと思う。
余談ですが
先日86歳の祖母に会いに行ったときに、開業する孫のために祝儀袋を用意したいと相談された。
「開業祝い」という文字を代わりに書いてあげて、その下に書く名前は「ばあちゃんが自分で書きや」と促した。震える手で「バアバより」と書いた。いや、書けていなかった。「ババアより」になっていた。
「ああー間違えちゃった。ババアより…やって、おっかし」と笑っていた。「おもろいやん、伝わればいいんやから」と僕は返した。
きっと中身は使っても、その封筒は捨てずにとっておくと思うよ。そんなことを思った。
きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』
[文・構成/きしもとたかひろ]
きしもとたかひろ
兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
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