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子供を注意して「しまった!」 保育者が気を付けていることは…【きしもとたかひろ連載コラム】

By - grape編集部  公開:  更新:

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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。

連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。

第2回は、子供に注意をする時の対応について、きしもとさんが考えていることをご紹介します。

第2回『積み重ねたり、塗り重ねたり。』

ぼくは、大人なのにできないことがたくさんある。毎日のように忘れ物はするし、片付けも得意ではない。

週末に部屋を掃除するんだけれど、掃除し終わった時の清々しい気持ちで「この状態を保つぞ!」と決意しても次の日には机の上がごちゃごちゃになってるし、気づいたらエアコンのリモコンがどこかにいってる。

週末には魔法でもかけたのかというくらい見事に掃除する前の状態に戻っている。せっかくなら片付く方の魔法をかけてほしい。

どうせ散らかるのなら片付けなくてもいいやと思ってしまいそうになるけれど、片付けなければその状態のままかといえばそうではなく、もっと散らかるんだから、やはり掃除しないわけにはいかない。

その時には全部終わった!と思っても、それは終わりではなく始まり。生活ってそういったことで溢れているなあと感じる。

どれだけ文明が発達しようとも、僕たちはいっぺんに三日分食べてその後なにも口にしないで三日過ごすなんてことはできないし、一ヶ月分寝だめして一ヶ月起きっぱなしで活動することもできない。

「これだけできたらクリア!あとはもう寝ず食べずでも生きていけます!」とはならず、死ぬまで毎日、食べて排泄して寝て起きてまた食べてを繰り返す。

誰もが知っている当たり前のことをぼくが発見したかのように偉そうに言ってみたんだけれど、最近ふと思うのだ。なんてめんどくさいんだろうって。

なぜだか僕たちはどこかにゴールがあると思っていて、そのありもしないゴールを目指しているような気がしてるけれど、ほんとはただ毎日の繰り返しなんじゃないかって。

ある時、子どもが発泡スチロールを工作に使いたいと言ってきた。細かく砕いて雪みたいにするのだと。ぼくは何の気なしに「あとでちゃんと片付けるんやで」と言った。すると「ならいいや」とあそびをやめてしまった。

「しまった!」と思った。

その子は発泡スチロールが雪のようになることに興味を持ちあそびを深めようとした。にもかかわらず、ぼくはその姿よりもその先にある「片付け」を指摘した。そのせいでその子は「片付けをしたくないから遊ばない」という選択をしたのだ。

一見すると見通しを持っているようにみえるけど、それを合理的とは言わない。排便をしたくないから食べない、みたいなおかしな話だ。ぼくは、その子の活動をひとつ奪ってしまったのだ。

ゼロにせず、ひとつずつ解決する

仕事でトラブルが起きた時に、気をつけていることがある。それは、「トラブルを失くそうとしない」こと。

開き直ろうということではなく、改善策は練るけれど「今後一切トラブルを起こさないように」とまでは思わないようにするということだ。

トラブルは厄介だけれど、それを起きないようにするとどうなるか…。あそびをやめたその子のように「なにもしないこと」を選んでいってしまう。

そして少しずつ制限が増えていく。片付けないようなあそびを選んで、喧嘩をしないようにペアを決めて、失くし物をしないように私物は持って来させない。

クレームは避けたいから例外は認めない等々細かいルールを決める。守れなければ罰を与えることもある。そうやって大人も子どもも縮こまっていく。

そうならないように、トラブルが起きた時こそ言い聞かす。「ひとつずつやで。目の前の問題を一つずつ解決するんやで」と。

喧嘩をしている、片付けをしない、悪口を言う、手を出してしまう。そんなトラブルが起きれば「二度とないように」としがちだけれど、それは無理やねん。トラブルは起きるねん。

だから「そのたびに解決していけばいい」と思うようにする。新たな問題が起きればまたその一つひとつに向き合っていく。万能薬なんてない。トラブルが起きないようにする特効薬なんてないんだと言い聞かす。

毎日ご飯を食べて排泄して寝て起きてを繰り返すように、トラブルが起きるのは当たり前のことで、その度に向き合って解決して、またトラブルが起きて…それをずっと続けていく。延々とそれを繰り返していくだけだ、と。

すっきりはしないし、ずっと気を張らないといけないけれど、もう大丈夫と見ないフリしたりトラブルを起こした人のせいにはしたくないから。

なにも目指さないでみる

子どもが好ましくない行動をした時に、例えば忘れ物をするとか、片付けをしないとか、電気をつけたら消さないとか、準備が遅いとか、そんな時に「何回言ったらわかるの?」って言っちゃうことがある。

もちろん、1回目からそんな言い方はしないで丁寧に伝えるし、子どもの言葉も聞こうと努める。けれど、何度も何度も注意して怒るのを堪えてそれでも変わってくれないと、「何回言ったらわかるの?」と言ってしまう。

「?」をつけているから尋ねているようだけれど、「うーん、10回かな」なんて返されたら「回数を聞いているんじゃない!」と激昂してしまうだろうから、実際は「一回で分かってよ!!!」なのだろう。

そういった場合に一回で聞いてもらえることはほとんどない。一回で聞いてくれないから何回言ったらわかるの!と言うんだもんね。

この子はできるはずなのに。こないだまでできていたのにまた振り出しに戻った。そんな風に感じてしまう。よりよく育ってほしいから、散らかすよりは片付けができるように。

うっかりで済まされないこともあるんだから、忘れ物をしないように。そう願うことは自然なことだ。

けれど、「そういう人」になることを目指すとしんどくなるかもしれない。「できる」ことがゴールになるから「できない」ところに目がいく。できていないことをできるようにすることに力を注いでしまう。習慣づけが訓練になってしまう。

でも、生活習慣を身につけることって訓練なのかな。きっと違うよね。

白米を上手に食べられる大人になるために毎日食事するわけではないように、片付けができる子になるために片付けをするわけではない。生きるために食べるんだし、快適に過ごすために片付ける。

習慣というのは何かになるための訓練ではなく、ただの毎日を年輪のように塗り重ねていくことだ。そうして身についていくし、身につかなかったりもする。

だから怒っちゃダメだよ、と言いたいわけではない。怒っていいと思う。けれど、何度言っても分かってくれなくて、成長していないように見えても、「大丈夫だ」ってこと。

次にできなくてもまたその時はその時で伝えればいいんじゃないかなってこと。

何度言ってもわかってくれない。何度注意しても直らない。ゴールを目指してしまうと全然すすんでいないようで足りていないように感じるけれど、いまに照準を合わせられたなら、それの繰り返しなのだと思えたのなら何度もしつこく伝えることもしんどくなくなるんじゃないかなって、そう思ったのだ。

きっと、落ち込んでいる人がいた時に「落ち込むような人間になるんじゃないよ」と声をかけることはないよね。そのときどきで「しんどかったね、つらいよね、けれど私はあなたのことが大切だよ」そう伝えるんじゃないかな。

そんな気持ちで「片付けなよ」「意地悪言っちゃったね」「叩いちゃったね」と寄り添える余裕が少しでもできればいいなと思う。いや、いつもは無理だと思う。ぼくも無理だ。けれど、それもいいんだと思う。

僕たちも「怒らない人」を目指さなくていいんじゃないかなって。ダメだなんて落ち込まないで、「あ、今日は怒っちゃったな、ちゃんとフォローしとこう」「ちょっとイライラしてて怒っちゃいそうだから今日は目をつぶろう」そうやってその都度向き合っていけばいいんじゃないかな。

同じように余裕を持って向き合えた時には「今日はいい感じやったね」と自分を褒めてあげたいなと思う。

もちろん、子どもの成長を俯瞰して見ることも大切だから、その上でその子になにが必要なのか(優先順位が高いのはなにか)を考えて、片付けができるような配慮や手を出さなくていいような支援をしていかなければいけない。

ただ、一足飛びで解決とはいかないから、行ったり来たりしながらその時その時のその子と自分に向き合えたらいいなと思う。

保育にも子育てにも方法論はある。ぼくの描いている漫画もその一つだ。けれど、子育てに絶対の形はない。わからないことだらけで、何度も立ち止まっては間違えて、それでも悩むことをやめずに学び直して。

唯一正解があるとすれば、それをずっと繰り返していくだけなんだろうと思う。

前に進んでいると思えたら安心できるけれど、育ちとは前に進むことではない。できなくなることも、サボることを覚えることも、立派な育ちなんだよね。

子どもたちはぼくたちの気づかぬうちに見えないところで育っていく。長い目で見守っていけたらいいなと思う。

誰かに喜んでもらえると、また喜んでほしくてそれをなぞりたくなる。

第1回のコラムでは想像以上の反響をいただいた。ふだん理屈っぽいことばかり書いているので、誰かの心を揺さぶるような文章を自分が書いているなんて思ってもみなかった。

思いがけない反響に驚き、喜んだ。けれど同時に第2回の筆が止まった。ここがいいねと言われると次からもそれを意識してしまう。期待に応えたくて同じようなものを書こうとしてしまっている。いかんいかん、力んではパフォーマンスが下がるのだ、読めたらええねん。と言い聞かせて書いた。

正解を見つけてそれを目指して書かなくたっていい。ぼくが今思っていることを、その時のぼくの言葉で綴ればいいのだと。ご飯を食べて排泄して寝て起きて、好きな映画を観て仕事してうまい酒飲んで、そんな毎日のように。

余談ですが

ぼくは髪の毛が少ない。20代前半からハゲてきて順調におでこが広がっていき、今や前髪と呼べるものがない。

イラストにもしているようにキャラとして定着しているのでコンプレックスとかではないんだけれど、外で走ったりすると風で少ない髪が乱れて落ち武者みたいになるのでさすがにそれは恥ずかったりする。

そんななか、先日初めてジムに行ってランニングマシンに乗って気づいたんだけど、髪、乱れないのね。そう、ランニングマシンの上では向かい風がないの。なんて素晴らしいんだろうって。

何かを目指すとき、逆境に立ち向かえという文脈で、向かい風も追い風にしよう、と励まされることがあるけれど、風がなくてもいいんじゃないかな。どこかに向かうためではなく、どこかにたどり着くためではなく、たんたんと流れる日々の上を歩いているのだ。

そんな風(ふう)に思ってもいいんじゃないかなって。人生はランニングマシンってなんかダサいけど、それも僕らしいかもなと思ったので書いておきます。生まれた時はいつも最高傑作やもんね。


[文・構成/きしもとたかひろ]

きしもとたかひろ

兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
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