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「ヘタだからやらない」という子供 その理由に考えさせられる【きしもとたかひろ連載コラム】

By - grape編集部  公開:  更新:

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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。

連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。

「すべての物ごとは役に立たないといけないの?」第3回は、評価につながってしまう考えについて、きしもとさんが持論を展開します。

第3回『役に立っても、立たなくても。』

ぼくの母は本の虫だ。

実家へ帰ると、いつも違うタイトルの本が居間に置いてある。図書館で数冊借りて同時進行で読み進めているようで、まとめて借りるわけではなく、読み終えた本を返してはまた新しい本を借りてきて、ロケット鉛筆方式で常時4、5冊が装弾されている。

四六時中、朝起きてから寝る直前まで本を読んでいるからといって知識人で知見が深いのかといえば、残念ながらそんなことはない。

いや、失礼。教養がないと言いたいわけではなく、走るのが好きだからといって足が速いとは限らないのと同じで、知識を蓄えるために読書をしているというわけではないようだ。ということだ。けして悪口ではない。

例えばぼくが同じ本を読んで感想を話しても「そんな場面あったっけ?」と内容を忘れていることがザラにある。本当にその「読む」という行為を楽しんでいるのだろう。

せっかくそんなに読むのなら、何かに生かしたらいいのにと伝えたことがあるのだけれど、いま思えばナンセンスな言葉だったなと感じる。

母にとっては「本を読む」ということ自体に意味があって、「役に立つ」かどうかはオマケみたいなものなのだ。

本を「学ぶもの」としてではなく、「娯楽」として楽しんでいる。なにかを身に付けるためではなく、そのもの自体に意味があるから付加価値は必要ないのだ。

シールを集めるためではなく、純粋にチョコウエハースが食べたくてビックリマンチョコを買う人ってどれくらいいるんだろう。

チョコを売るためにシールという付加価値をつけたり、そのシールを集めるためにチョコを買ったりする人が多いこの社会では、それがすこし尊いことのように思った。

先日6歳の子が「リカちゃん(人形)ファミリーを描くのだ」と意気揚々とスケッチブックを開いたのに、しばらくしたら「うまく描けない!」と癇癪を起こして何度も描き直していた。

はじめはお絵描きを楽しんでいたのが、「上手に描きたい」という気持ちが生まれ、“うまく描けない自分”と“それでも描きたい自分”との間で葛藤しているのだろう。

その時は、自分の“楽しい”を選ぶように「顔だけ描いて」とぼくに委ねてきた。

出来上がっていく過程が面白いのか、はたまた羨望の眼差しか、描いている手元を食い入るようにじっと見つめながら「わあ、じょうずじょうず!」と喜ぶ姿を見て、これもまたその子にとっての“絵を楽しむ”ということなんだなと思った。

ちなみに、僕も「うまく描けない!」と癇癪を起こしそうになったけれど頑張って描いた。リカちゃんとトーマスは描くの難しい。

楽しいことと役立つこと

子どもたちに「いっしょにやる?」と誘ったときに、「ヘタだから」と断られることがある。一人や二人ではない。

「ヘタなんかないよ」と言っても、その子にとっては評価されるものになってしまっているのか、あそびで描くのも難しいようだ。

僕にもそういうことがあるな、と考えを巡らせる。いつだったか「オンチだね」と言われた、今になっては誰に言われたかも覚えていないその言葉が、服に引っかかって取れなくなった釣り針のように引っかかって、痛くはないけれど着るたびに穴は広がっていった。

歌うたびに「ああ、ヘタなんだよなあ」と思ってしまうから今では鼻歌を歌うこともしない。

その子は、誰かに下手だねって言われたのだろうか。他の子の描いた絵と比べて自分で思ったんだろうか。誰かが褒められているけれど自分は褒められなかったからそう思ったんだろうか。考えてもどうしようもないことを想像してしまう。

苦手という感覚は、他と比べたり周りから評価されて生まれるものなんだと思う。

絵を描く、走る、歌う、ほとんどのことはだれかに評価されるためのものではないはずなのに、あるタイミングで「自分は下手なんだ」「走るのが遅いんだ」「音痴なんだ」と気づいてしまって、「苦手(不得意)」になる。するとそのまま楽しむことができなくなって「苦手(好きではない)」に変わっていってしまうんではないだろうか。下手でも音痴でも、好きのままでいてかまわないのに。

ヘタでも楽しそうに歌う姿は可愛らしい。鼻が詰まって音階もリズムもどこへやら勢いだけの大きな声で歌っている姿を、ヘタなのに愛おしく感じることがある。

それは、その子が歌っている歌ではなく、おもいきり歌うことを楽しんでいる姿に心が揺さぶられるからだろう。

その子の「楽しい」の姿に勝るものはないのに、僕たちはあっさりとその楽しさの芽を摘んでしまっているかもしれない。そんなことをたまに考える。

描く触感を楽しむ。さまざまな色が出ることやいろんな形を描くことを楽しむ。ただ表現することを、絵を描くことを楽しむ。上手く描けるようになる自分を楽しむ。絵を描くことひとつとってもいろんな楽しみ方がある。

その中で、育つのは手先の器用さや観察力などの目に見える能力だけでない。好きなことに没頭して楽しいを積み重ねることでしか得られない力がある。

非認知能力といって、それは、好きなことを続けていればそれで食っていけるよとか、楽しいからその能力が伸びるという話ではなくて、もっと根っこの力が育っているってことなんだけれど、このコラムでは役に立つことは書かないことにしたので説明は割愛する。

ぼくたち大人はついつい目に見えて役に立つことに注目してしまう。役に立つから漫画やゲームより読書をしてほしいし、遊んでいる姿ではなく遊んでいる内容を気にしてしまう。いつも何かができるようになることを期待している。

「いまを楽しむ」ことが大切だと分かっていても、どうしてもそれが刹那的なことのように感じて、目に見える育ちを見て安心したくなる。「非認知能力が役に立つ」というのを聞いても、じゃあそこを伸ばそう!と思ってしまう。

すると「熱中してくれ」「楽しんでくれ」と、子どもにこちらの思いを求めてしまい、結局「役に立つ」ことに価値を置いてしまっている自分に気づく。

ややこしいことに、「ヘタだね」ではなく「上手いね」と褒めていればいいのかと言えば必ずしもそうではない。上手いことに価値があるということは逆説的に言えば「上手くないと価値がない」と感じてしまったりする。

極端な解釈に感じてしまうかもしれないけれど、存外、それを楽しめなくなってやめる理由としては十分だったりするから、なにが正解なのかますます分からない。

ぐるぐる考えすぎてしんどくなってくる。じゃあどうすればいいんだよ。と。

これは合ってるのか?間違ってるのか?子どもの意欲や好きなことを奪っているのか?子どもにとって役に立たないのか?そんなことばかりを考えてしまう。

役に立たないことを大切にしてみる

「こないだお酒飲んだ店で店員さんがムービー撮ってくれてて、ええこと言うたよな面白い話してたよな盛り上がったよなと思って酔い覚めて見返したら、俺全然おもろいこと言ってないねん。シラフで見たら恥ずかしいくらい。けど、それもまたええよなって。あれは、ただ酒を飲んで、ただ楽しく笑うためのものやわ。ためになることなんか無いけど、楽しくて笑えるだけで意味があんねん」

この原稿を書いているときに電話した友人がそんな話をした。飲んだくれてる自分を正当化するための戯言かもしれないけれど、ああそうだよなあと深く納得したのだ。なにかの役に立たなくてもいいよなあって。

酒を飲む、甘いもの食う、漫画読む、映画観る、わけのわからないことを言って笑い合う。大好きな時間はほとんどがなんの役にも立たないことじゃないか。

そうか、無駄でもいいと思えたらいいな。役に立つことばかりが大切なことではないよ、無駄でもいいじゃない、いまちゃんと満たされているんだからって。それは気休めではなく、大切なものを大切にするために必要なことなんじゃないかなと思う。

育てなければ。うまくやらなければ。生活も子育てもハックしなければ。役に立つことを探して正解を探して間違えないように。そうやって必死になってハックどころか四苦八苦する。

うまくやらなくていい。保育も子育ても、役に立つかは置いといて目の前の美味しいとか楽しいとかを見てみようって。本を読んで付箋貼って学ぶのもいいけれど、いまその文章をそのまんま楽しんでみよう。

あとで思い出すために写真に残すのもいいけれど、いま肉眼で見て味わってみよう。子どもだけでなく親も保育者も、そんな風に日々を過ごせたら少し肩の荷が降りるんじゃないかなあって。

一緒にお風呂にはいったり、美味しいものをニコニコと食べたり、寝顔を見てかわいいなと思ったり。それがかけがえないことなんだよねって、たまに振り返ることができたら。

それを楽しめるように周りのみんなが手伝っていけたらいいんじゃないかな。外食でもデリバリーでもいいから一緒に食べるの美味しいねって。

そうやって、役に立たないんじゃないかな意味のないことなんじゃないかなと思って焦る気持ちを、「大丈夫だ」と思えたらいいな。

ただ笑いあった毎日は、なにかの役に立たなくてもきっと、10年後のその日を生きる力にはなっているだろうから。

そして、ぼくたち保育者は、それを「実は、ほんとに大丈夫なんですよ」と専門的な知識から後押ししていけたらと思う。「ちゃんと見えないところだけれど、こんな風に育ってますよ」って。

人の役に立てると嬉しい。役に立つことで喜ばれると、もっと役に立てるようにと思う。そうやって誰かに褒めてもらうことも、自分は価値あることをやっているんだと思えることも、誰かに求められることを求めるのも、悪いことではないよね。

けれどたまに、役に立てないと価値がないのかな、と自分を追い詰めそうになったときには、あえて無駄なことをしてみよう。無駄なことをしているなあ、なにも役に立たないことしているなあ、けれどこの時間が充実していて好きなんだよなあと感じられたらいいな。

余談ですが

関西人はバイキングに行くと「もととるでえ~」と言う。イメージがあるらしい。何という失礼で極端な偏見だろうか。関西人みんなが言うわけない。上品な方の関西人に謝ってほしい。

僕はどうかといえば、上品ではない方なので言う。「もととるでえ~」って。父も言う。まあなんだ「いただきます」の代わりみたいなものだ。ただ、その「元を取る」とはなんなんだろうと考えたことがある。

たくさん食べたり原価率の高いものを選んだりして「食事代の元」を取ることだろうか。だいたいがそう思われているけれど、実は違うよなあと思う。

人間は食い溜めできないのだから、料金分の元を取ろうとして鱈腹食べても一食は一食だ。必死に食べて腹を下したらむしろ損だ。

じゃあバイキングの醍醐味って何かといえば、非日常の空間で多くの種類の食べ物から「自分の食べたいものを好きな量だけ食べられる」ことだ。その気持ちと空間にお金を払っているのだ。

だから、選ぶのうきうきするなあ、色んな味があって美味しいなあ、って目の前のものを楽しめるのが一番贅沢なんだろうな。

「せっかく来たのに同じものばかり」とか「もっと食べなきゃもったいない」とか考えなくていい。好きなものを好きなだけ、それがバイキングの秘訣や。知らんけど。

そんなことを言いながら腹一杯になっても「せっかくやしもう一回」とお代わりしてしまうんやけどね。


[文・構成/きしもとたかひろ]

きしもとたかひろ

兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
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