支援員に「もう死んでもいいかな」といった子供 どうやって大人は寄り添える?
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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。
今回から、番外編として子供にまつわるお悩み相談をスタート!1つの選択肢を提案し、心に寄り添うメッセージをご紹介します。
『大人になってもできないことだらけです。』お悩み相談フォームはこちら
「死んでもいい」という子供に向き合う、支援員の悩み
【悩み】
支援員です。いろいろな場所でうまくいっていない思春期の子供と向き合っています。
ある日、子供が「いなくなってもいい、死んでもいいかな。私って幸せになれるのかな」って、ぼそっといいました。私はその言葉を「生きたい、楽しく過ごしたい」の裏返しだと思うんです。
「つらい気持ちを打ち明けてくれてよかった」と思うと同時に、どう向き合っていけるのかを考えています。そして、「どうして、この子がそんなになるまで気付けなかったのか」と後悔もしています。
家族でもない私が、その子にどんな声をかけようか、どう寄り添っていこうか…。きしもとさんなら、どうするかを知りたいです。
子育ての困っちゃう場面は僕の専門分野ですが、今回は人生相談のような内容で自分に応えられるのかと悩んでいました。
僕には、保育については専門知識や実践を通して得てきたものがあります。それをもとにした僕なりの支援やアドバイスなら有用かもしれないけれど、誰かの人生を左右しそうな相談に僕なんかが応えられるのか、と。
正直に言います、今さっきまで応えられそうな気がして書いてました。僕なりの答えを出しかけていました。
不思議なことに、誰かに相談されたり応えたりする経験をしていると、自分が話す言葉に力を持ったように感じてしまうことがあります。そしてそれが、気付かぬうちに何の根拠もない個人的な感覚でも、さも正しいかのように話してしまうようになる。
門外漢のくせにわかった口を聞いてしまうんですよね。今まさに、それをしようとしていました。危なかったです。
相談者さんと同じように子どもと関わる支援者のひとりとして、僕ならどんなことを考えるかな、僕ならどんな言葉をかけるかなと一緒に悩みながら、僕が経験してきて感じたことや考えていることを僕の話としてつらつらと書いていこうと思います。
お悩みを読みながら思い出した僕の話
「ブスやから撮らんといて」
いつものように9歳の友人と遊んでいてスマホのカメラを向けた時に、そんな言葉が返ってきた。
この間までは喜んで写真に写っていたのに、唐突に言われたその言葉が僕にとってはかなりショックで、咄嗟に「そんなことないし、自分のことブスとか言わんといて!」と強めに否定してしまう。
「なんで怒るん?」と戸惑うその子を見て我に返り、なるべく冷静に「なんでそう思うん?」と聞いてみると、「学校でクラスの子に言われてんもん」と返してくれる。
成長するにつれて周りの目を気にするようになり、次第に自分の容姿に劣等感を感じたり周りと比べて不安になったりするのは自然なこと。そういったやりとりが友達同士であることも想像できる。
頭ではわかっているのにその時は、どうしてかその言葉で僕の方が傷ついてしまったのだ。
僕自身が容姿に劣等感を抱いていてその辛さに共感できるからか、その子にそんな風に思わせてしまっていることに申し訳なさを感じたからか、僕の中にもっと別の感情があるのか、自分でも判然としないけれどとにかくショックだったのは覚えている。
誰かを傷つける言葉や下品な言葉など、子どもが放つ言葉で「言ってほしくないな」と思うものがある。誰かに向けた言葉だけではなく、その子がその子自身を卑下する言葉もその一つ。
「オレ不細工やし」「私なんか生きてる意味ないわ」「もう死にたいわ」そんな言葉を聞くと、反射的に「そんなこと言わないでよ、言うもんじゃないよ」と返してしまう。
その子が「そんなことないよ」と言ってほしくて言ったのなら、僕のその答えは正しいのかもしれないけれど、そう思っていることをただ話したかっただけならどうだろう。
その子の気持ちはその子の気持ちで間違いなんかないのに、もしかしたら、その言葉はその子の悲鳴かもしれないのに、勝手に僕が傷ついちゃって「そんな言葉をあなたの口から聞きたくないよ」と、受け止めきれずに自分の言葉だけ返してしまう。
まずはまっすぐ受け止めたいのに、なかなかそれができずに、正しい言葉でその子を否定してしまう。
なんと答えればいいんだろう。「僕はそうは思わないよ」とか「僕は大切だよ」とアイメッセージにしてみても、「そんなことを言うのをやめさせたい」という気持ちがたっぷり乗っかっちゃう。
その子に幸せでいてほしいという気持ちが、気付かぬうちに「僕の前で幸せそうにいてほしい」になってしまっていることに気づく。僕の前では頑張らず卑屈でもいいからそのままの姿でいてほしいって、本当は思っているはずなのに。
自分をブスだと言った友人に、どう言葉をかけるのが正しいのかわからなくなって、けれどそんな風に自分を否定する気持ちを少しでも消したくて、「僕はそんなこと思わへんよ。誰やそんなこと言うの!許されへんな!」と、今度は少し冗談を交えて怒ってみる。すると、「ほんまやわ!しばいたって!」と笑って返してくれ、その笑顔を見てほっとする。
ほっとしながらも、自分を否定してしまう言葉は、この先もその子の根っこにずっと残ってしまうことを僕は知っている。
そうしていて思う。僕の前ではそのうち、こんな風に「自分なんて」とは言わなくなるかもしれない。今のこのやりとりで「この人の前では幸せそうにしていなきゃいけない」って思わせてしまっているかもしれない。
つらそうにしている姿は見たくないけれど、でも、その子につらいのを我慢させている方が、そっちの方がつらいよなって。
相談者さんへ
いろんな場面を思い出しながら相談内容を読んでいて、純粋に「言えてよかった」と、そんなことを思います。
貴方がその子にとってどんな存在かはわかりません。何年もかけて関係を築いてきた間柄なのか、定期的に会う間柄なのか、はたまた最近出会ったのか。
いずれにしても、その子はあなたにその言葉を言えた。悩みに悩んでようやく話せたのか、ただ反応を見たかったのか、その思いを否定してほしかったのか、つい溢れてしまったのか、その理由もわからないけれど、でも言えた。
それは、その一瞬だけでも救いになったんじゃないかなって思うんです。なにかその子の人生に影響を与えるような救いじゃなくて、ちょっと歩き疲れて一瞬だけ腰掛けるベンチくらいの救いかもしれないけれど、それでいいんじゃないかなって。
もちろん、日常的に自尊心が削られるような環境にいたり、鬱傾向にあるのかもしれないという視点も持って、必要なら専門機関に繋げなければいけない場合もあるでしょう。
ですから、その心配は冷静に抱き専門的な視点からの支援策は講じつつ、一方で一人の人としては「そんな風に言ってしまうまで気づかなかったのか」と落ち込みそうになる気持ちには、そんなに自分を責めなくても大丈夫だよと思っておきたいです。
過激な言葉を聞くと「大変なことなんじゃないか」と心配になります。つらそうな顔を見ると、どうにかしなきゃって、その言葉を言わなくていいようにしてあげたいって思います。
けれど、実際に僕たちにできることのほとんどが、相談者さんのように話を聞いたりその子の言葉を聞き逃さなかったりといった地味なことの積み重ねしかない。
だから大きな問題に見えて何かをしなければいけないと思った時こそ、その子を良くしよう変えてあげようと思わずに、一人の人として、その子が今なににしんどさを感じていて今なにを求めているのかという小さなことに目を向けていたいなと思っています。
そうやっていって、どこかでその言葉を言わなくてもよくなるタイミングがくるかもしれないし、もちろん、その言葉を言い続けて生きていくかもしれない。
けれど、その言葉を言い続けることで生きていけるなら、それでもいいんじゃないかな。それならば、その子にとってそれを否定しないでいてくれる人がこの世にいるということが、大切な事なんじゃないかと僕は思うんです。
その言葉をそのまま受け止めると言っても、その言葉を聞いて「うんそうだね」なんて絶対に言えないですよね。
僕はそんな時、ちゃんと応えなきゃって思いすぎて白黒つけちゃいそうになって空回りして失敗しちゃうんだけど、そういう時だからこそ曖昧でもいいのかなと最近は思うんです。
肯定はできないけれど、かわりに否定もしない。それが、うなずくだけなのか、気の利いた言葉を絞り出すのか、関係ない話で気を逸らすのかわからないけれど、同じ言葉でもそれぞれ違う悩みだから、少なくとも「こんなセリフを返したらいいよ」とか、「こんな風に応えたら響くよ」なんて答えはないですよね。
ひとりの人として、自分のショックを伝えたり困惑してみせることは何もおかしなことだとは思わないけれど、そのショックをその人にぶつけてしまわないようには気をつけていたいなって思っています。
その子にどんな声をかけられるか、どんな風に寄り添えるか、自分は何ができるだろうかって、僕たち支援者は考えます。できるならいい方向に、その子が変わるために、僕に何ができるだろうかって。
けどそんな時って、頭の中は「“僕は”その子に何ができるだろうか」でいっぱいになってしまうんですよね。もちろん、僕の立場で僕ができることを考えるのが仕事なんだけど、ちゃんとそこには「自分は何もしない」という選択肢も用意しておかなきゃいけないと思っています。
その子が安心できて、信頼できる関係を築いていくことが理想で、そんな存在がその子に必要だし、それが自分でありたいとも思う。ただ、その中でその子の命や尊厳を守るためには、「僕でなくていい」場面やその関係性を崩さなければいけない場面があることも事実です。
それは決して、問題に目を瞑ろうとか見過ごすための言い訳にしようという意味ではなく、責任感を持って子どもと関わる人ほど、子どものしんどさや心の機微に気づける人ほど、自分が応えてあげないとって思いすぎて追い詰められてしまうから、自分が応えることなのか誰かに繋げることなのかを冷静に見ていたいということ。
「必ずしも、その子にとって必要不可欠な存在にならなくてもいい」というのが、その子にとっても自分にとっても救いになることがある気がしています。
余談ですが
今こうやって意気揚々と相談に答えている自分を自分で俯瞰して思うのが、やっぱり誰かに相談をされると嬉しいものだなってこと。相談できるような環境や関係を作れているのだとホッとするし、自分を肯定されたような気持ちにもなる。
もっと正直に言うと、自尊心が満たされるような気持ちよさや、自分がその人にとっての特別な存在になったように感じたりもする。そしてその子にとってのそんな存在になりたいとも思う。
けれど、相談できるのって、なんでも知っていてどんなことでも話せて全幅の信頼を寄せる人だからなのか、といえばそんなことはない。
「たまに会う、名前も知らないなんとなく話しやすい、必ず秘密を守ってくれる人」とかでもきっと十分だろう。むしろ相談する方の立場ならその方が気が楽なこともある。
その子が主人公の映画があったとして、物語の鍵となる重要な脇役にでもなれそうな、そんな特別感を感じた時には、いやいや序盤の公園のシーンで腰かけているベンチくらいでいいんだよ、と自分に言い聞かせてみる。
またいつかどこかで腰掛けるかもしれないし、それっきりでもう出番はないかもしれないけれど、うん、それくらいがちょうどいいなって。
クレジットには小さく名前を載せてもらえるのかな、なんて小さな期待は捨てきれないんやけどね。
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[文・構成/きしもとたかひろ]
きしもとたかひろ
兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
⇒きしもとたかひろnote
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