オモチャを叩き壊された子供 犯人を知っても「だから?」というのを見て…
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X(Twitter)やnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒す文章をお届けします。
第23回『小さなシミと大きなツミ』
たまたま居合わせた遊び場で、レゴを取り合っている子たちがいた。
僕はその子たちのことを知らないし、その子たちも僕のことを知らないので、怪我がないようにだけ配慮しながら横で見守っていると、「あの二人はいつも喧嘩になるのだ」と、スタッフの方から教えてもらった。
じゃれあっている様子ではないので、これが毎日だとしんどいだろうなと想像する。もちろん、子どもたち本人が、だ。
大人が仲裁に入ってじゃんけんか何かで解決したようで、それぞれが別の場所で遊び始めた。しばらくするとさっきの子が、ロッカーの上の段ボールで作ったショーケースにレゴを飾り置いて、本棚の方へ行った。
すると、もうひとりがそのショーケースに寄っていき、手をゆっくりゆっくり近づけているのが見えた。悪い予感がしたけれど、そのゆっくりが葛藤しているようにも見える。もしかしたら、我慢しようとしているのかもしれない、そう思って声だけかけようとしたところで、スタッフが「だめだよー」と止めに入った。
するとその子は、迷いが吹き飛んだように勢いよく、飾られたレゴを手で掴むと床に叩きつけた。
やっちゃったー、間に合わなかったかーと思いながら、さっきのじゃんけんではモヤモヤが消化できていなかったのかな、壊された子の気持ちを考えると伝えないわけにはいかないな、と思案する。
すると、止めに入っていたスタッフがレゴを拾い上げ、「あの子が壊したよ!」と報告に行ってしまった。「悪いことをしたのだから怒られたらいい」との考えだろうと想像する。本人の代わりに大人が怒るのは筋違いだし、被害を受けた本人には怒る権利があるからそれも一つだろう。
「また喧嘩がはじまる」と、まわりで見ていた人たちみんなが身構えていたと思う。
ところが、その子は、一瞬ショックを受けた顔をした後で、犯人を報告してくる大人に対して「は?だから?」と返した。
やけに反発的な姿を見て、その行為が相手をかばっているのでも、レゴを壊されたことをなんとも思っていないのでもなく、他の理由があることを察する。
その子を怒らせてやろうとか、喧嘩するようにけしかけようとか思っていないまでも、その子を助けたり気遣うために伝えたのかといえば違うだろう。それが透けて見えたのではないか。
自分を助けようとしているのではなく、自分を良いように使おうとしていると感じたのではないか。大人に懐柔されるくらいなら、気の合わないあいつとも手を組むよとでも言うかのように、「別にええねん」と飄々とした口ぶりで、壊れたレゴを喧嘩していたその子に渡して読書に戻る姿を見て、いろんな思いが巡る。
「あの子が宿題の答え見てたで〜」と、子どもが告げ口してくる場面を思い出す。「教えてくれてありがとう、どうして教えてくれたの?」と尋ねると「ズルいことだから」と答えてくれる。
「誰のために教えてくれたの?」と尋ねると「えー、あの子のため?」と困った顔をする。そして「怒らへんの?」と聞いてくるのだ。
子どもにとっての大人ってどんな存在なんだろう。僕はどんな存在でいたいのだろう。
ある日、子どもたちのロッカーの近くで紙切れを拾った。
子どもにも大人と変わらずプライバシーはあるので、私物を勝手に触ったり手紙などを勝手に読んだりはしないように職員間で気をつけていた。けれど、それを「手紙だ」と判別するかしないかというところで、強烈な言葉が目に入った。
仲のいいグループのひとりに向けて書かれた悪口だった。“おふざけ”ではすまされないような言葉で、子どもがこんなにひどい言葉を使うのかと、いつもあんなに仲のいい友達にそれを浴びせるのかと、恐ろしくなった。
その言葉をぶつけられる子の思いを想像するだけでつらくなり、「このままにしてはいけない」という一心で、その子どもたちを呼び出した。
「ふざけてやった」と答えた。細かい言い分を言っていたかもしれないけれど僕が覚えていないのは、はっきりとした理由がなかったというだけでなく、僕にその子たちの言い分を聞く気がなかったのだろうと、今になっては思う。
ふざけてではすまされない、人として絶対に許せないことだと、その子たちが泣くほどの剣幕で怒った。そうしなければいけない気がした。子どもの中に見つけた悪の芽みたいなものを、すぐにでも摘まなければ、いや、潰さなければいけない気がしたのだ。
人として絶対にやってはいけないことなのだと、その正義を子どもたちにぶつけた。その時は、正しいことをしたと思っていた。ちゃんと怒ってあげる存在がこの子達には必要なんだと。
けれど、それからもう何年も経っているのに、未だにその時のことを思い出しては、もっと他に方法があったんじゃないだろうか、間違いを犯してしまったのではないかと後悔の念に駆られている。
後悔しているはずなのに、けどさ、そのまま放っておいたらいじめに発展していたかもしれないし、もっとひどいことをしていたかもしれない。この行為の重大さをこの子たちが知らずに大人になったら本人たちのためにもよくない。そんなことを言い訳のように並べてしまう。
「自分が部屋に入ったらみんなが喋るのやめてん」とある子が話していた。みんなから嫌われたのだと感じたらしい。
ひとりで本を読んでいたら他のところで別の遊びが始まっていたのを、仲間外れにされていると感じて拗ねてしまう子もいた。
そんな時に、子どもたちが手紙に怨みつらみを書いて渡し、小さな諍いや喧嘩に発展する、ということは色んな年代や場面で少なからずある。
最後には誤解が解けて笑い話になったとしても、その時のその子たちは実際に傷ついて悩んで葛藤して、その思いをぶつけ合っている。そんなことで、と大人が思うことでも、子どもたちにとっては真剣で必死だ。
そんな時に、嫌なことがあったら相談できて、やり場のない怒りや悲しみを聞いてもらえて、いい所もイヤな所も関係なく自分も受け止めてくれる。そう感じてもらえるような存在でありたいと僕は思っている。
なのに、そうはなっていないじゃないか。
僕たち大人は、状況に応じて「子どもの些細な喧嘩」として見守ることもあれば、いじめに発展する可能性を考慮して、度を越したものには「やりすぎだ」と断罪することもある。
それはどんな立場としてなんだろう。子どもにとっての大人って、そういう存在なのだろうか。
気づいたら、子どもたちにとって「自分の人生や自分たちの関係に口出ししてくる人」になってしまっている。少なくとも助けてくれる人ではない。
酷い言葉を手紙に書いてしまったあの子たちも、イヤなことを言われたとか、無視されたとか理由があったんじゃないか。ただ気に食わないだけとか、なんとなく過激な言葉を誰かに向けたかっただけだとしても、本人たちにとっては必死なことだったのかもしれない。
なのに僕はその子たちの話を聞かなかった。いや、聞いたかもしれないけれど、「どんな理由があっても、許されることではない」と、はなから厳しく怒ることを決めていたのだから、聞く耳を持っていなかったと言えよう。
でもやっぱり、と、また自己弁護が顔を出す。「悪いことは悪い」とはっきりと伝えることも僕の役目じゃないのか。その子たちに嫌われたとしても、大人としての責任はあるんじゃないのか。傷つく子を守るために、傷つけた子にまで配慮しなきゃいけないのかと。
ちゃんと怒ってくれる大人がいることがその子にとっては大切なことだ、というようなどこかで聞いた言葉が、ちゃんと叱れることは素晴らしいじゃないかという言葉と合わせて頭によぎる。いくらでも言い訳する言葉は溢れてくる。
そしてまた思う。「その方法でないと、その傷つく子を守れなかったの?」って。「その時本当にその子は救われていたの?」って。守ることよりも、やっつけることに夢中になってたんじゃないの?って。
誰もが、人を思いやる気持ちや慈しみの心を持つ一方で、意地の悪さや自分でも認めたくないような醜い心を合わせ持っているものなのに、どうして子どもたちには一点の曇りも許さないというように厳しくなってしまうのだろう。
僕はただ「悪者をやっつけてやりたい」という懲罰意識のようなものに駆り立てられただけなんじゃないのか。子どもは純粋で無垢な生き物だという勝手な子ども像を押し付けて、その中で見つけた小さな黒いシミを徹底的に漂白しなきゃいけないような気になっていたのではないか。
ほら自分のなかにも黒い部分はあるじゃないかと、自分の体のどこかにいつの間にかできた小さな黒いシミを思い浮かべて、そのシミを見ないようにしている自分と目が合ってしまう。
僕が鬼の形相で叱り、反省させ、子どもたちは謝った。「謝ったんだから許してあげなよ」とは言わなかったけれど、悪口を書かれた子はすぐに笑顔で許してあげていた。
それで僕はその子を守れたような気がしていたけれど、その子は僕に怒られて謝る子たちを見て、許すしかなかったんじゃないか。
もしそうだとしたら、救うどころか、その子を追い詰めていたことになる。許してくれた子を、僕はたぶん褒めたのだけど、それもその子を苦しめるものになっていたんじゃないか。
であれば、救われたのは僕の方で、鬼になったことを正当化するための免罪符はもうどこにもない。
数年経ってからその子たちが仲良くしている姿を見て、僕はほっとしたのを覚えている。その安堵もおそらく自分を許すためのものだった。
僕が怒ったことでたまたまいじめに発展しなかったのかもしれないけれど、逆に言えば、僕が怒ったせいで子ども同士の関係が壊れたかもしれなくて、その子たちが仲良さそうに笑って過ごしているのもたまたまかもしれない。
その子たちのために、その子を守るためにそうしなければいけないのだと、その時の僕は思っていた。やり直すことができないから正解は分からないんだけど、だからこそずっと後悔している。
いくら後悔しようと、その時のその子たちが傷ついた事実がなくなるわけではない。こんなところに懺悔することさえも自己満足でしかない。
ただ、きっとこの時に限らず同じように間違えたことは何度もあって、当たり前だけれどやり直すことはできなくて、だからこそ同じことを繰り返さないために何ができるのかを、ずっと考え続けるしかないのだ。
余談ですが
仲のいい3人組が喧嘩をしていた。
喧嘩をするほど仲がいいとは言っても、度が過ぎてしまったり解決が難しかったり、思わぬ方向に行くこともあるので、適度の距離から見守れたらいいなと思う。
仲が良くても悪くても、その子たちの関係はその子たちのものだ。その敬意を持って大人の思う形に嵌め込んだり無闇に介入しないように気をつけながら、かといって放っておくわけでもなく、うまく伝えられなくてもどかしいとか、しんどい思いをしてるとか、どうしたら良いかわからないとか、困ったり迷ったりしたときに手助けできるよ、という距離感だ。
そばにいき、落ち着いている様子のひとりに「手助けが必要なら呼んでね」と声をかけると「大丈夫!いつものことやから!」と返ってきた。
あっけらかんとした雰囲気に便乗して「いつものことか」と笑って返すと、別のひとりが「そうそう、いつものことやねん。ほっといたらそのうち仲直りしてるから」と、なぜか自慢げに続ける。
それを聞いたもうひとりが「そうやで、ウチらごめんって言わんでも気づいたら仲直りしてんねん」と、これもまた得意満面に話してくれる。
「なーー!」と、3人で声を重ねて笑っているので、「喧嘩してたんちゃうんかいな」と礼儀としてツッコミを入れさせてもらう。
子どもたちの関係を邪魔しなかったかなという思いと、しんどさを見落としていないかなという思いと、両方とも自分の中にあることを確認しておく。
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[文・構成/きしもとたかひろ]
きしもとたかひろ
兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。SNSアカウントやnoteに投稿している。
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