子育ての『手抜き』で大切なこと 「手を抜いてもいい」ではなく…【きしもとたかひろ連載コラム】
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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。
周囲から完璧を求められたり、自分で完璧を求めすぎてしまったり…第4回は、子育てが『重荷』にならない工夫を、きしもとさんが考えます。
第4回『荷物をおろして、余裕をもって。』
「トイレいっていいー?」と聞かれて「あかんでー!」と返す。すると、まわりで見ていた子たちが「ウソやで!行ってええで!聞かんと勝手に行ったらええねんで!」と割って入る。
「今日公園行くー?」と声をかけると「うーん、今日はやめとくわー」と返答があった後しばらくしてから「やっぱり、その時の気分で決めていい?」と尋ねてくる。「もちろん」とぼくは答える。
砂遊びをしている子に「鬼ごっこをしようよ」と声をかける。断られたので「なあなあ、やろうや」としつこく誘ってみる。すると「学童は言うこと聞かないとあかんルールちゃうやろ!」と怒られる。
部屋にいてトイレ行くのに許可なんかいらないし、なにをして遊ぶかはその時の気分で決めればいいし、大人の言うことを聞かないとあかんこともない。したいこともしたくないことも、自分できめたらいい。ほんとにその通り。
何年か前の話。学校から帰ってくると毎日のように漫画を読んでいる子がいた。ほかのあそびや公園に誘ってもよほど気が向かない限り応じず、学童で過ごす時間のほとんどを読書に使っていた。
他の子たちとの関係やあそびへの関心などを考察しながらも、子どもの思いを尊重しようと無理に別の活動をさせることはしなかった。
そんななか保護者の方から、毎日漫画ばかり読んでいて心配だと相談された。ぼくがその学童に務めるまでは大人主導で様々な活動をやっていたらしく、その頃と比べて“何もしなくなった”ように見えて不安になったようだった。
今のぼくであれば、その子の育ちや興味関心の観点から見通しを持って伝えられたのだろうけれど、当時のぼくは「好きなことをしていますし見守っていきましょう」としか伝えられなかった。
お迎えのたびに「今日も漫画を読んでいました」と言うのが、それを言って「またですか」と残念がられるのが良くないことのような気がして、ある日少し強引にその子を外遊びに誘ってみた。すると、思いのほかあっさりと応じてくれて、意外にもみんなと楽しんでいるようだった。
別の日にも声をかけると、またあっさりと連れ出すことができた。それから毎日のように公園で走り回る姿を見て「なんだ、ほかの遊びも楽しめるんじゃないか」そう思い始めたある日、それがぼくのエゴにまみれた大きな勘違いだったことに気づく。
ある子が「俺は行かへん~」と答えたのを見て、その子は「え?行かんでいいの?」と驚いたのだ。同時にぼくも「え?行きたくなかったの?」と驚いた。
はじめの頃は渋々だったかもしれないけれど、最近は乗り気のように見えていた。あんなにあっさりと参加して楽しんでくれていたから喜んで参加しているものだと思っていた。
「断ってくれたら良かったのに!」と言いそうなところをギリギリ思いとどまった。断れなかったのはその子のせいではない。ぼくのせいだ。
大人と子どもの関係では、気づかぬうちに従うことが“当たり前のこと”になっていることがある。ぼくにとっては“少し”強引でも、その子にとっては断るという選択肢すらなくなっていたのだ。
そして、公園で楽しんでいたあの姿は、連れていったぼくの力ではなくその子がそれでも楽しもうとした力なのだ。
自分のことは、自分で決めていい。イヤなことはイヤだ、やりたくないことはやりたくないと言っていい。
それが本当は“当たり前”のことなのに、気づかぬうちにその当たり前を失くしてしまっていた。「断ることができる環境」が子どもにとってどれだけ大切なことかをあらためて考えさせられた。
ぼくはその時に、無理に誘うことはもうしないと決めた。けれど、声をかけることをやめることはしなかった。毎日声をかけて毎日断られるたびに「また今度やろな~」と軽く返すことにした。
好きなことをしていてね、断っていいんやで、けれど退屈だったり孤独感を抱いたりするときはここにいるからね、と。
こちらが思い描く姿に引っ張らないようにその子の“いましたい”を尊重しながら、その子が自分の興味の外に目を向けた時にはそれを逃さないようにと、長い目で見守ることに努めた。
毎日漫画を読みふけっていたその子は、ある時から急に、充電が完了したかのように他のあそびにも目を向けるようになった。自分のしたいことを尊重される。好きなことで心が満たされる。心が満たされると、他のことにも目を向けてみようかなという余裕が生まれる。
新しいことには、余裕ができてようやく向き合える。きっとそれだけではないだろうからほったらかしにするわけではない。
けれど、その子が「しなければならないこと」でいっぱいになっていないかは見ていたい。もし、窮屈になっていたら「しなくてもいいこと」を増やしてあげたい。
「したいことをする」ことや「余裕を生むこと」を、“大切にする”だけではなく“必要なこと”にできたらいいなと思うようになった。
休息や手抜きを「必要なこと」にしてみる
子どもと関わるときに、いつもなら笑ってスルーできることを見過ごせなかったり、少し強めな口調になってしまう時がある。
あとで振り返るとだいたいが、体調が悪かったり時間に追われていたり、外出先で周りの目を気にしていたりするときだ。どれも、余裕がないことから起きること。
困ったことに、こういう時って「あ、よくないぞー、言い方キツくなってるぞー」と自分で思いながらうまくコントロールできなかったりする。
そして後から「ああ、あんな言い方しなくても良かったのになあ」と反省という名の自己嫌悪に陥ってまた余裕がなくなる。
「余裕を持つこと」と「機嫌よくいること」ができるだけで、子どもとの関わりは変わってくる。あまり極端なことは言いたくないけれど、たったそれだけで激変するといっても過言ではないくらい、「心の余裕」は時に、技術よりも知識よりも大切になってくる。
ただ、大切なことはわかっていても、「よし今から余裕を持とう」といって簡単にできることではない。余裕がないと、余裕は持てないからだ。両手がふさがっていたら持てるものも持てない。まず荷物を降ろして片手を空ける必要がある。
この「余裕を持つ」って、知識や技術を身につけたり心を広く持ったり、そうやって器を大きくすることではなくて、今ある器の大きさのままで空き容量を増やすことなんだと思う。
容量がいっぱいだとアップデートも新しいアプリをダウンロードすることもできないように、新しい知識も情報も入ってこない。器を大きくすることではなくて、まずは空き容量を増やすこと。
そのために、余裕を作ることを「必要なこと」として位置付けてみる。
「しなければいけないこと」でいっぱいになってしまっている日常に「余裕を持つためにすること」を組み込んでみる。なんでもいいと思う。ぼーっとしたり、映画を見たり散歩したり好きな服を着たり、ほんとになんでもいい。
これは「しなければいけないこと」だから、後ろめたい気持ちなんか微塵も必要ない。少しお金を使ったり手を抜いたり、誰かに頼ってもいい。「必要なこと」なんだから。
しなければならないことから離れて自分のしたいことをすると、ただそれだけで心に余裕ができる。満たされた分だけ空き容量が増える。
けれど、ひとつ気がかりがある。それは、頑張っている人は頑張っているように見えて、頑張っていない人は頑張っていないように見えてしまう。ということ。
寝ずに働いている人を見ると「頑張っているなあ」と言われるけれど、息抜きをしたり昼寝をしている人を見ても「あの人ちゃんと休んでいるなあ」という会話にはあまりならない。
だから、ぼくははっきりと言ってみようと思う。余裕を得るために子どもから離れたり時には手を抜いたりすることは「必要なこと」なんだと。
「手を抜いてもいいんだよ」ではなく、「ちゃんと手を抜きましょう」と。自分は子どもと離れてダメなんじゃないか、手を抜いてサボっているんしゃないかなんて思わなくていい。メンテナンスをしているのだ。コンディションを整えているのだ。必要なことをしているのだ。
周りで見守る人たちも「子どもがかわいそう」という正義を振り回す前に、その視点で見られるようになれば、「必要なこと」のためにサポートしていけるんじゃないかなと思う。余裕を持つことが、ひいては「子どものため」につながっているんだと思えるんじゃないかなって。
そんな風にして時間と心の余裕ができたら、やる気も出てくる。冒頭の子のように余裕ができて他のことにも目がいくようになってくる。
そんな時に気合いを入れて「こうするのがいい」という知識や技術を集めそうになるけれど、そこでも急がずに。余裕をもって「これはしなくてもいいよ」の方を探してみてはどうだろう。
例えば、トマトを食べられない子がいるとして、好き嫌いをせずになんでも食べる「ようにしなければならない」と思うと、食べられない姿に目がいく。食べさせないと、と必死になってしまう。
それを、他のもので栄養を補えるし食べることを楽しむことの方が大切だから、なんでも食べられる「ようにしなくてもいい」と思えると、好きなものを食べている姿に注目できる。余裕が保てる。
子育てや保育では、待つことが大切だと言われる。けれど「待たなければならないこと」だと、「ちゃんとしてほしいのに」「みんなできているのに」と、待つことがしんどくなる。
それを、視点を変えて「指摘“しなくてもいい”こと」「いまは“できなくてもいい”こと」だと知れたら、「無理しなくても大丈夫かも」と待つことが自然にできて、しんどくなくなるんじゃないかなと思う。
余裕ができてようやく、できない姿ややりたくないと言う姿を大切にできてくる。できない姿を尊重できるようになったら、また少し心に余裕ができる。
子育てや保育に必要なのは、子どもを思い通りに動かす方法ではなくて、我慢して見守る忍耐力でもなくて、それくらいは大丈夫かなって余裕を持って見守れる視点と知見なんだと思う。ユーモアがあればなお良いな。
あれもできるように、これもできるようにと、しなければならないことに心が占拠されそうになったときに、みんなができるようにならなくていいよ、できないことも必要なことだよって思えたら少し気持ちが楽になるかもしれないな。
余談ですが
昨年の夏実家に帰った時にでかいキュウリを食べた。父が畑で育てたらしく、2、3日、目を離したらヘチマみたいなキュウリになったらしい。
そして、その畑のなにも手入れをしていない雑草の生えた畝からミニトマトが育ったそうだ。
「去年育って落ちた実から勝手に生えてきたんやろな。肥料やってるトマトよりもようけ(たくさん)できたわ、すごいやろ」と自慢げに話す父に「勝手に育ったのになんで自慢げやねん」と心の中でつっこんだ。
誰のおかげでもいいか。枯れないように見守って、適度に手を抜いて、知らぬ間に育って、よかったねってみんなで言って、そんな感じでいいよねって。
きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』
[文・構成/きしもとたかひろ]
きしもとたかひろ
兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
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