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外出先でイライラする9歳児 保育者が「拗ねないで」と伝えると?

By - grape編集部  公開:  更新:

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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。

連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒す文章をお届けします。

第21回『巻き戻しはできないからな』

「なんであんなことでイライラしてたんやろう、アホやわ」と、9歳の友人が笑いながら話している。

先日出かけたときに、電車の中で学校の宿題を取り出した。「こんなところでするの?」と聞くと、「少しでも長く一緒に遊びたいから!」と返ってくる。嬉しいことを言ってくれるなあと感じながら、そういえば学童保育でも公園のベンチで宿題をしている子がいたなと思い出していた。

机に向かって取り組むことが理想なんだろうけれど、嫌なことに向き合って工夫しているんだからいいことだと思って見守ることにする。

やり始めたらエンジンがかかったようで、駅に着くとそのままの勢いでベンチに座って宿題を終わらせた。大きな声で「やったー!終わったー!」と叫び、踊りながらハイタッチを要求してきた。

いつもなら「いえーい!」と一緒に踊るんだけど、その時の僕は行き交う人たちの目を気にして小さく「やったね」とハイタッチを返すだけにした。

すると不満そうに「なんでそんな小さいん?宿題終わってんで?いっぱい遊べるねんで?ほら!いえーい!」とまた手を伸ばしてくる。「人が多いからさ、はい、いえーい!ほら遊びに行こう」とまた小さくハイタッチに応えながら声をかける。

「いつもはもっと喜んでくれるやん」と呟くのを聞きながら、ちょうどこの間話していたことを思い出す。

「大人になったらな、人の目を気にして恥ずかしがっちゃうからな、子どものうちにはっちゃけとくねん!」と、その時も人目を憚らずに踊っていた。それを見て、めちゃくちゃ素敵だなあと思った。

いま本人がそれを有言実行しようとしているのかはわからないけれど、そのとき僕はたしか「じゃあ、一緒にはっちゃけようかな」と返したはずだ。なのに、いまの僕はつまらない大人の振る舞いをしてしまっている。

人目なんか気にせず一緒に喜ぶべきだよなと思い直し、いえーい!と少しハイテンションで手を出したけれど、時すでに遅し。誰が見ても不機嫌ですとわかるような顔でそっぽを向かれてしまった。

それからずっと不貞腐れていた。5歳の妹が遊具で遊んでいるのを横目に見ながら、ブスッとした顔でベンチに座り込んでいる。

その子の気分はその子のものだから、僕が無理に機嫌をとるわけにはいかないけれど、とはいえ、さっきつれない態度をとってしまった申し訳なさがあり何度か声をかけた。

しかしながら一度曲げたヘソは簡単にもとには戻らず、それを見ていると次第にこちらもイライラしてきてしまい、「いつまで拗ねてんのん、せっかくきたのにもったいないで」と、言わなくていいことを言ってしまった。

もしこれが「拗ねている」という状態だとしても、本人だって楽しみたいはずだ。なのに、「楽しみたいのに楽しめない」というしんどい状況を助けるのではなく追い討ちをかけるような言葉をぶつけてしまう。

すぐに「違うよね、自分で切り替えられるように頑張ってるんやもんね、ごめん」と謝りたいのに、別の僕が「けどこんな態度をいつまでも取ってる本人が悪いんやん」と心の中で言い訳している。

結局楽しめないまま時間は過ぎ去り、気分転換にマクドナルドのポテトを食べて帰ることにした。気分転換という言葉の通り、ポテトを食べると本当にあっさりと機嫌が治り「おいしいもん食べると元気でるなあ」と呑気に笑っている。

元気が出てきた勢いで「今からもう一回遊びにいける?」と、あっけらかんと聞いてくる。行きたいけれど、さすがに今日はもう時間ないからと断ると、「あ〜なんであんなんでイライラしちゃっててんやろう~アホやわあ」と落ち込んでいる。

帰り道を歩きながら、ふと「今日さ、イライラして楽しめなくてごめんな」と謝られた。こんなときに大人なら、素直に謝れてえらいねと褒めたりするんだろうか。

僕はその冷静で真っ直ぐな謝罪を受け止められずに「謝らないでよ、また行こうね」と応えながら、謝るのは僕の方ではないのかと自分に問う。

一緒に踊らなかったことではない。イライラをぶつけてしまったことを、だ。

素直に謝ることについて考えるときに、いつも思い出す場面がある。

学童保育の仕事を始めて一年目、僕は楽しくも厳しいメリハリのある大人として子どもたちと接していた。ちゃんと叱ってくれることが安心ですと保護者に言われて、それを鵜呑みにもしていた。

だから、子どもたちの間違いを指摘しているときに少し厳しい言い方になっても正しいことをしていると思っていた。

ある時、ひとりの子に指導しているときに、横から別の子が「私見てたけど、その子悪くないで」と口を挟んできた。

正直今では、何で怒ったのか覚えていない。おそらく僕は本人の言い分も聞かず事実確認もろくにせず、自分が見て間違えていると思ったことを指導として叱っていたんだろう。

自分の見解が甘かったらしいことと、間違って怒ってしまっていることを素直に受け入れられずに、「そうだとしても、そう見えるのも悪いでしょう」と無理矢理に理由をこじつけて、声をかけてくれたその子にも怒ってしまった。

心の中で「自分の勘違いで怒ってしまっているから訂正しなきゃ」という気持ちが出てきているのに、「いや、今更無理だ、これはこの子たちのために言っているんだ」という言い訳の気持ちがせめぎ合っていたのを、今でもはっきりと思いだせる。

その後話が終わってその子たちと笑って遊んでいても、家に帰ってからも、ずっと自分の中はモヤモヤしていた。そのモヤモヤを消すために「あそこで怒るのは、あの子たちのために必要なことだったのだ」と何度も何度も言い聞かせた。

「必要なことだったのだ」と何度も言い聞かせながら、一方で、それが保身のための言い訳であり、今まさに自分がなりたくないと思っていた大人になっていることにも気づいていた。

次の日、やはり素直に謝ることにした。「ちょっと話があります」と真面目な顔して呼びかけたものだから、子どもたちは「また怒られるのか」と緊張しているのが見てとれる。

その緊張を解すように「昨日のことを謝りたいねん」と話す。その子たちの安心した表情を見て、あぁやはり大人はずるいなと感じる。いつだって優位な立場にいる。

「昨日の事なんやけど間違えて怒ってしまったのに素直に間違いを認められなかった、ごめんなさい」と伝えた。「でもな、君たちもさ…」と説教を交えた言い訳をしそうになるのを抑えて、きちんと心からの謝罪をした。

その子たちは、ほっとしたように「あー、全然いいよ」と言って笑ってくれた。

許してくれたことが、「怒られなかった」という安心感からだったり、あるいは「謝られても許さない」という選択肢を与えられていないだけかもしれない。

なのに、僕はそこでちゃんと謝れたことと許してもらえたことに満足して、さらには、「大人が子どもに謝った」「自分は子どもに謝れるのだ」ということを少し誇らしげに感じていることに気づく。これも自己満足ではないかと気づき、つくづくいやらしいなと自己嫌悪になる。

間違ったことをちゃんと正せた。それは素晴らしいことだ。だからと言って、その子たちを傷つけた事は消えないのに、そこで十字架をおろして悦に浸るようじゃ何も反省はしていないのと同じではないか。

この頃から、「子どものために」という言葉で叱るのも、自分が怒りたくて怒るのも、子どもにとっては同じじゃないのかと考えるようになった。そして、本当に子どものためにと思っていても、ふとした瞬間にその思いを言い訳にしてしまうことも。

もう15年以上も前のことだけれど、それからずっと、こんな自分とどうやって付き合っていこうかと悩み続けている。言い訳しそうな自分が出てきたときに、いつもあの時の、ふたりのことを思い出す。

バスで9歳の友人と出かけた際に、隣に座る5歳の妹がふざけてシートに寝そべっていた。他の人の邪魔になるから座るようにと声をかける。バス停に着くタイミングでもう一度、今度はより具体的に「もうすぐ降りるから座って準備してね」と声をかけて、降りるために手を繋ぐ。

しかしながら、こちらの意図が伝わっていないのか、ただふざけたいのか、また寝そべる。笑っているのでわざとだろうか。ここで、自分の中に少しだけ苛立ちが顔を出したことに気づく。

その苛立ちを表面に出さないように冷静を保ちながら、けれど周りの人たちの目も気になるのでつい「降りるから立って!」と少し強めに声をかけて、引っ張って抱き起こし、バスを降りた。

無理に引っ張ったというより、促すように引っ張ったつもりだったけど、少し強引だったかなと反省していると、一緒にいた9歳の友人に、「無理に引っ張ったから痛がってるやん」と、ド直球で図星を指摘されてしまった。

そこで僕は「ほんまやな、ごめん」と素直に謝ればよかったのに、「ふざけてて寝そべってたから立ち上がらせただけやん」と言い訳してしまった。15年前のあの時の二人の顔がちらつく。

「到着する前に声をかけていたし」「周りの人の迷惑にもなるし」「公共の場でふざけていたし」と、言い訳を並べながら、それが言い訳だと冷静に考える自分と、正直自分は悪くないでしょうと本気で思っている自分がいた。

そして、それをちゃんと反省できたのは、ずっとモヤモヤを抱え続けて2週間ほど経ってからだった。どんな理由があったとしても、痛がったのなら謝るべきだった。なぜ素直になれなかったのか。

確かにあのとき、自分の中に小さな苛立ちが芽生えたことに気づいていた。僕は周りの目や公共の場では「きちんとすること」にやけに厳しくなってしまうようだ。いつもならなんとも思わないことでも、公共の場ではイライラしてしまう。ちゃんとして、と思ってしまう。

無理に引っ張って降りなくたって、乗り過ごして目的地を過ぎてしまってもよかったかもしれないな、なんて後から思う。そりゃ毎回そんなことはできないけれど、それくらいの余裕を持っていたら、と考えてみると、そもそも無理にやることでもなかったかもしれない。

「なんであんなことでイライラしちゃったんやろう、アホやわあ」と笑っていたのを思い出す。

イライラしてしまうことや、間違った行動をしてしまったときに、「自分はそういう人間なのか」ということに向き合うことになる。

僕らは、イライラして機嫌悪くすることや、間違いを犯してしまう人は「ダメな人間だ」と思い込んでいるかもしれない。この世に、イライラしない人なんていないし、間違いを犯さない人だっていないのに。

当たり前にやっていたことが、実は誰かを傷つけていたのだと知ることがある。子どものためにと思ってしていたことが、実は子どもを苦しめてしまっていることがある。

その人のためにと思って助けたつもりが、その人を追い詰めてしまっていたり、喜んでいるように見えていたものが、僕のエゴだっただけなんてこともある。

そんな事実に気付かされたときに、僕は自分の本意とは違う結果になっていることにショックを受ける。そして間違えるたびに、自分という人間性までが間違っているかのように感じてしまう。

そうすると、「そんなつもりじゃないのに」という思いを盾に自分の中で言い訳を始めてしてしまう。自分はそんな人間じゃないはずだと必死に言い聞かせる。

誰かを傷つけたくないという思いは、絶対に誰も傷つけることはないということにはならないのに、ちょっとでもそうなると「そういう人間」だと思ってしまう。

その自分の間違いや愚かさを見つめるときにあんな風に素直に振り返って笑って自分を見つめられたら、それは反省するのと同じように自分を改めるきっかけになるのかもしれない。

怒っている自分に言い訳しそうになっている自分に気づいたら、「なんであんなことでイライラしちゃったんやろう、アホやなあ」と笑ってみる。

イライラをぶつけて誰かを傷つけたなら笑ってる場合じゃないけれど、けど一旦「イライラしちゃった自分」を受け入れるために笑って自分を見てみる。

イライラしちゃうものだよ。イライラして機嫌が悪くなるのは器が小さいわけではないよ。間違えて誰かを傷つけるようなことをしてしまっていたのは、性格が悪いからではないよ。

そうやって、そのことをちゃんと見つめられたら、言い訳をしなくて大丈夫な気がする。

そうしちゃったけれど、本心では傷つけたくはなかったんだ。そうやって振り返ることができれば、それに気づくたびに行動も改めようと思えるようになってくる。

不機嫌になってしまうことや間違えてしまうことを責められてばかりでは、そんな風に素直に自分を見つめることは難しいかもしれない。と思いつつ、かといって、ブスッとされたり反省の色がなかったりするとこちらがイライラしちゃうんだけどね。

言い訳しては立ち止まって、言い訳を引っ込めて反省して、そんな風に失敗ばかりで落ち込んでしまうと前を向けないから、まずは言い訳しそうになったら「そうやって言い訳してしまうのは自分が悪いからかもしれないと振り返れているからやで」と思うことにする。

余談ですが

おやつにポテトを食べた後、自由帳を広げて絵を描きながら「ナゲットも食べたいなあ」と言い出した。

おやつと言っても夕刻に近いこともあり大人としては「いまそんなに食べて、夕食食べられる?」と尋ねてしまう。尋ねているようで説得するような言い方になっているのは自覚している。

すると、「いま食べた方が食べれるで。巻き戻しはできないからな」と返ってきた。

巻き戻し?なんのことかと思ったら、夕食までに食べるのなら今が一番早いタイミングだというわけだ。おもしろい言い回しと、すでに食べることは決定事項になっていることを知り、愉快な気持ちになる。一本取られた気持ちでスマートフォンを開きナゲットを注文する。

僕のことだから、反省や後悔は毎回きっとする。決定事項だ。

間違えてしまう前に気づけたらそれがいいけれど、その最中でも、失敗した後でも、しばらく経ってからでも、どれだけ遅くても、遅いけど遅くはないのだと思うことにする。

いま振り返ることができるなら、間に合うこともあるかもしれない。いま改めなきゃ、間に合わないことがあるかもしれない。巻き戻しはできないからね。

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[文・構成/きしもとたかひろ]

きしもとたかひろ

兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。SNSアカウントやnoteに投稿している。
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