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小1「かわいいから犬が欲しい」 その『言葉の裏』に保育者が思ったこと

By - grape編集部  公開:  更新:

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X(Twitter)やnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。

連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒す文章をお届けします。

『大人になってもできないことだらけです。』看板イラスト

第24回『覚えてなくてもたしかにあった。』

洗濯機の底から取り出した、脱水されて変な形になった靴下をそのまま洗濯バサミに挟みながら、「いつもはシワ伸ばしてたっけ」とふと思う。

シャツやズボンは、シワのまま乾いちゃうと面倒なので干す時に伸ばすようにしているけれど、靴下はどうだったっけ、と考えて一度手を止めたけれど、「見えないからいいか」と、そのまま干し終える。いい加減な自分に感心しつつ、なんとなく心の余裕がないのかなとも考えていた。

急いでない時や気分がいい時は、もう少し丁寧に干している気がする。綺麗にシワを伸ばすことはしないまでも、せめて靴下の形状には戻している。

僕は几帳面な性格とは言えないので、どんなこともある程度でいいのだけれど、ある程度であっても丁寧にできるのは余裕があるからで、できないということはすなわち余裕がないからだろう。

心の余裕のバロメーターが靴下の干し方というのはなんだか間抜けだけれど、心の調子なんてそれくらい気づきにくい場面に出てくるものなのかもしれない。

靴下なんて毎日のように干すわけだから、日常に自分の状態を測れるものがあるのは便利だなと思いながら、乾燥機があって干す必要がなければそもそもその分の余裕が生まれるのかなとも思う。

別の日、家を出る直前になって、履いている靴下が左右で違うことに気付いた。

いつも片方無くしてしまうので、最近は一つの洗濯バサミにペアで干すようにしているのに。なんなら、片方なくなってもいいように同じ種類の靴下を何足も揃えているのに。

干す時に間違えたのか、古い靴下が混じってしまったのか、理由はわからないが、考えてもしょうがない。

着替えようかと思案したけれど、すぐに「見えないしいいか」とそのまま靴を履いて家を出た。

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一年生の女の子が、犬を飼いたいのに家族が賛成してくれない、と話していた。

ショッピングモールで見かけた子犬がどれだけかわいかったかを熱弁してくれる。あまりにも嬉しそうに話すので、それだけの思いがあれば犬も幸せになるね、なんて軽はずみなことを口走りそうになって、私情だけで安直なことは言ってはいけないよなと口をつぐむ。

「わたしより先に死んじゃうから悲しいよって言われてん」と嘆いているので、無闇に反対されているわけではないらしい。

ペットを飼うことで命の大切さを知る、とよく耳にするけれど、その一方で、「かわいいから」という理由だけでペットを飼うことについて異を唱えるのも、命の重さを考える上では大切なことだろう。

「自分より先に死んじゃうから悲しいよ」という言葉が、その考えを伝えるためなのか、説得するための単なる口実かはわからないけれど、目の前の感情だけでなく別の視点があることを子どもに示すという、大人の役割のようなものはある気がする。

「たしかに、自分より先に死んじゃったら悲しいね」と返事をする。どちらかの肩を持つような言い方にならないように気をつけたら、結果的にただのオウム返しになってしまう。

「けどさ、ペットショップにいたって死んじゃうやん」と返ってきた。

ああ、たしかに。

家で飼ってもそのままペットショップにいても、その犬はいつかは死ぬ。言われてみれば当然のことなのに、予想もしない言葉で、しかもそれが屁理屈に聞こえないものだから、咀嚼(そしゃく)するのに時間がかかってしまう。

自分と一緒にいてもいなくても、いつかは死んでしまう。それは「どうせ死ぬなら同じやん」という投げやりな意味ではなく、「どちらにしても悲しいことに変わりないやん」と僕には聞こえた。

僕は、犬が「その子のもの」になることで、その子の生活に“存在する”のだと思っていたらしい。明確な理由はなく、なんとなくそう思っていたということに、その子の言葉を反芻しながら気付く。

自分のものとして愛でる対象がほしいというのが、ペットを飼いたい理由の一つなのだと思っていたというのもあるだろう。

その子にとっては、自分のものにならなくても、その犬はこの世界に存在しているのだ。なんだったら、“自分のものになる”という感覚すら、その子にはないのかもしれない。

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自分の生活に大切な存在ができることはとても幸せなことだ。生活をともにして一緒に過ごす時間が増えていくと、その存在は自分の生活の一部になっていく。

自分の生活の一部になると、自分とその存在との間にはっきりとあったはずの境界が溶けるように見えなくなっていき、知らぬ間にその存在が自分の人生の一部のような感覚になっていく。そして、それが心地いいと感じてしまうこともある。

「自分のもの」という傲慢な言葉は使わないにしても、自分の人生の一部であるという感覚はそれに近くて、だから大切にしたいという気持ちが生まれるとも言えるんだけど、一方でその存在は自分と切り離した独立した存在であることを忘れさせるから厄介だ。

自分の人生に登場しなくても、その存在はその存在としてあり続けるように、どれだけ自分と人生をともにしようとも、僕の一部になったりすることはなく、その存在はその存在としてあり続ける。

一緒に生活しなくてもそれぞれの人生が進んでいくのだろうけれど、せっかく出会ったのだから一緒に過ごせたら、と、あの子もそんなふうに思ったのだろうか。

「かわいいから飼いたい」という言葉の裏にそこまでの思いがあったかなんてわからないし考えすぎな気がするけれど、それはあるいは言語として表現されていないだけかもしれなくて、その子の見ている世界には、僕が見落としているものが確かにある。

子どもの真っ直ぐな要求に「こんな視点もあるんだよ」と諭している気でいながら、心の中ではその子に見えていないものを見えている自分の方が正しいと思っていたりする。

子どもの方が本質が見えているのかもしれないなんて言い方は、逆に神格化して歪めて見てしまう気がするからしたくないけれど、率直に、自分が見えていないものがその子には見ていることがあって、それを意外だと思ってしまっていること自体がそもそも僕の驕りなのだ。

大人は、知識や経験があるから、物事を多角的な視点で見ることができる。子どもよりも視野も広いような気がする。けれど、物事の裏側を慮ることができるかどうかは、知識や経験の差だけではないのだろうな。

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「僕はどんなに貧乏な時でも寄付を絶やさない」という、友人の言葉を思い出す。

「それは、僕が偽善者だからというのと、“世界は誰かが観測して初めて存在する”のならば、目を逸らし、いないことにすると彼らは空気になるから。僕は寄付と一言Halloを通して彼らを観測する。痴がましいよね、でも存在がなくなるのは寂しいし、怖いよ」と彼は綴っていた。

「偽善者だから」と前置きしているのが彼らしいなと思いながら、その言葉を聞いて、自分がどれだけ狭い視野で生きているのかを突きつけられる。ショックを受けながら、ドイツ語ではHelloではなくHalloなのか、とどうでもいいことも考えるいい加減さも持ち合わせている。

日々の中で、例えば街を歩いているときに、例えば流れてくるニュースを見たときに、「そこにいる」ことを知りながら、気づかないふりをして、あたかも自分の世界には存在しないかのようにやり過ごすことがある。「あ、いま目を逸らしたな」と自分で気づく。

日常的にそういったことが続くと自己嫌悪に潰されそうになるから、自然と自分の人生と切り離して考えるようになっていく。困っている人を見て、その存在を知って、毎回のように憂いていたら身が持たない。だから、自分の生活や人生と切り離して考えることは、ある意味で生きる術なのだろう。

そのくせ、あるタイミングでその見ないふりをしていた対象が目の前からいなくなった時に僕が感じるのは、その対象への心配や悲しみではなく、見て見ぬふりをするだけで終わった自分への罪悪感と、それをもう感じなくてよくなったという安堵感で、結局のところ自己嫌悪に陥るわけだ。

現実問題として、目にするすべての出来事に反応して、すれ違うすべての人に関わるなんてできっこないし、それが必要だとも思わない。目の前の自分の手の届く範囲の人たちを大切にするだけで精一杯で、なんだったらそれすらも簡単なことではないのだから。

ただ、自分が目の前の手の届く範囲の人だけしか大切にできない事実を理由に、僕は誰かを「存在しないこと」にしてはいないだろうかと、友人の言葉やあの子の言葉を思い出しながら繰り返し考える。

それが自分の心の平穏を保つための生きる術だとしても、存在していないことにしてはいけない。せめて、見ないふりをしている自分からは目を逸らさないでいたい。

どこかで交わることがあるか、もうずっと会わないかわからないけれど、みんながそれぞれの人生を生きているという当たり前のことを、ちゃんとそのまま持っていたいと思う。

いつか自分に余裕ができた時に、それが靴下を綺麗に干そうと思った時か、乾燥機を手に入れて靴下を干さなくてよくなった時か、それとも靴下はクシャクシャのままでも大丈夫になった時か、いつかはわからないけれど、その時にちゃんと自分の思う行動ができるように。偽善だと言われようと、痴がましいと言われようとね。

余談ですが

先日、数年前に学童クラブで一緒に過ごした子と街ですれ違った。本人に気づいたというよりは、並んで歩く親御さんの顔を見て、気づいた。

いつもは、困らせたり怪しまれたりしたくないので急に声をかけたりしないのだけど、個人的な事情があって現場を離れる時にちゃんと挨拶ができなかった子の一人だったから、迷いながらも意を決して声をかけることにした。

僕が勤めていた学童では、あえて大々的なお別れ会や卒所パーティーなどはしないでいた。

学年が変わるタイミングで退所する子もいれば、年度途中でやめていく子や、習い事などが増えてそのまま離れていく子もいる。別れも、派手ではない平凡な日常の地続きで、それぞれの生活のそれぞれの環境が、小さく変わっていく。

感動や達成感みたいなものはなくて少し寂しい気もするけれど、だからこそそれが大事だと思ってのことだ。

ただ、個人的な理由でぶつ切りの別れになったことはやはり後悔していて、近くの街に来た時に似た姿の子を見かけて、もしかしたらと目で追っては、もうあの頃の背丈なわけがないのにと、自分の時間が止まっていることに悲しくなったりしていた。

久々に会ったその子は当然のように成長していて、背も伸びていた。毎日のように笑って話していたあの頃に戻ったかのように話は盛り上がった、ということはさすがになくて、お互いに距離感を探りながら二言三言だけ話をして、元気に過ごしていることを確認しあって別れた。

味気ないようだけれど、それでよかったと思った。

毎日一緒に過ごしていたら思い入れがないわけなくて、僕にとっての特別な思い出だからこそ、その子にもいい時間だったと思っててほしいなという感情が出てきたりする。

その自分の感情が自己満足の行動を招いてしまわないように、子どもたちの生活の中の居場所でありながら“特別なもの”になろうとは思わないことを大切にしてきた。それを確認できたようでよかった。

それぞれの人生のそれぞれの時間と場所で、たまたま同じ時を過ごした。僕のことや、あの頃のことを忘れていても、思い出にならなくても、特別な時間や存在にならなくても、楽しく笑い合った毎日は確かにあった。それだけでいいのだ。

誰かや何かの記憶に残らなくても、どうか元気でと、そう思える存在がいることは、幸せなことなのだろうな。

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[文・構成/きしもとたかひろ]

きしもとたかひろ

兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。SNSアカウントやnoteに投稿している。
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