「3.11」被災地で学んだ『津波』からの避難 「一度高台に上がったら戻るな」 By - grape編集部 公開:2016-03-10 更新:2018-03-09 岩手東日本大震災津波 Share Post LINE はてな コメント 最後に大槌町全体を見渡すことのできる、中央公民館のある城山へ行きました。 曲がりくねった道は勾配もあり、山を登っていると感じるほど。 いつ流されるとも知れない建物とは違い、足元に安定感があり、高い場所ということで震災時には多くの人が避難してきました。 車で避難してくる人も多く、城山へと続く道は渋滞していたそうです。 たくさんの人が集まるほど安全だった城山。しかし、山の上から海を見ていた人たちは、津波が一度引いたのを見ると降りていく人も多くいました。 あの時は寒かったから、毛布を取りに戻ったり、子供のために必要なものを自宅に取りに行ったりする人がいたんだよ。 でも、山を下りて戻ってきた人なんていなかったから。 一度高台に逃げたら、二度と戻るなって昔からいわれてたんだけどね。あの津波を見ても、まだどこかで甘い考えがあったんだろうね。 「津波の怖さは一度では終わらない」ということを肝に銘じておかなければと、改めて感じました。 また、城山の上に車で行けなかった人たちは、山の下にある広場に車を止めていたそうです。 寒かったから、車の中で暖をとってたんだね。赤ちゃんとか子供連れの人が多かったみたいなんだけど。 車の中にいるから、上で避難している人たちが「津波がきてるぞ」「逃げろ逃げろ」って大きな声で叫んだって聞こえないんだよ。 叫んでも聞こえず、津波が迫っているため助けに行くこともできない。車内の人たちも気づいた時には、逃げ出すことができない。 ちょっとした意識一つで、自分や家族の命も守ることができたのに…。 悲しい結果を招かないためにも、こういった教訓は多くの人に、いつまでも語り継いでいかなければいけません。 こうして山崎さんが案内をかって出てくれたのも、そうした考えがあったからなのかもしれません。 公民館そばの社に展示してあったパネルで、以前の大槌町の街並みを見ることができました。たくさんの人がこの地で暮らしていたことが分かります。 震災後5年が経ち、今もほとんどの土地が更地の大槌町。 以前、山崎さんが工事関係者の方からお話を聞いたところ、このように言われたことがあるそうです。 復興するまで、まだまだ。後5年はかかるんじゃないかな。 5年という一つの節目を迎えても、思うほど復興は進んでいない場所もある…。それほど東日本大震災は、多くのものを奪っていきました。 家、日常、そして、大切な人たち…。 これから先、5年10年と月日が流れても、全て元通りになることはないでしょう。もしかしたら、心の傷は一生消えないかもしれません。 それでも、絶対に忘れてはならない教訓。ほんの少しの油断が、自分や家族の命に繋がってしまうこと。 私たちは、震災とはどれほど恐ろしいものなのか、その全てをたくさんの人に伝えていかなければいけません。 東日本大震災を過去のことにしない。いつまでも関心を持ち、未来へと想いを繋いでいきたいものです。 震災関連記事 【震災遺構を歩く】『奇跡の一本松』が物語る震災からの5年 震災から復興へ!三陸鉄道はなぜ『震災復興のシンボル』になれたのか? 1 2 3 4 俳優・火野正平さんが逝去 腰痛の治療に励むも腰部骨折に火野正平さんが亡くなったことが分かりました。ご冥福をお祈りいたします。 元プロ野球選手 清原和博容疑者、逮捕される ファンは動揺…2016年2月2日、元プロ野球選手の清原和博容疑者が、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されました Share Post LINE はてな コメント
最後に大槌町全体を見渡すことのできる、中央公民館のある城山へ行きました。
曲がりくねった道は勾配もあり、山を登っていると感じるほど。
いつ流されるとも知れない建物とは違い、足元に安定感があり、高い場所ということで震災時には多くの人が避難してきました。
車で避難してくる人も多く、城山へと続く道は渋滞していたそうです。
たくさんの人が集まるほど安全だった城山。しかし、山の上から海を見ていた人たちは、津波が一度引いたのを見ると降りていく人も多くいました。
あの時は寒かったから、毛布を取りに戻ったり、子供のために必要なものを自宅に取りに行ったりする人がいたんだよ。
でも、山を下りて戻ってきた人なんていなかったから。
一度高台に逃げたら、二度と戻るなって昔からいわれてたんだけどね。あの津波を見ても、まだどこかで甘い考えがあったんだろうね。
「津波の怖さは一度では終わらない」ということを肝に銘じておかなければと、改めて感じました。
また、城山の上に車で行けなかった人たちは、山の下にある広場に車を止めていたそうです。
寒かったから、車の中で暖をとってたんだね。赤ちゃんとか子供連れの人が多かったみたいなんだけど。
車の中にいるから、上で避難している人たちが「津波がきてるぞ」「逃げろ逃げろ」って大きな声で叫んだって聞こえないんだよ。
叫んでも聞こえず、津波が迫っているため助けに行くこともできない。車内の人たちも気づいた時には、逃げ出すことができない。
ちょっとした意識一つで、自分や家族の命も守ることができたのに…。
悲しい結果を招かないためにも、こういった教訓は多くの人に、いつまでも語り継いでいかなければいけません。
こうして山崎さんが案内をかって出てくれたのも、そうした考えがあったからなのかもしれません。
公民館そばの社に展示してあったパネルで、以前の大槌町の街並みを見ることができました。たくさんの人がこの地で暮らしていたことが分かります。
震災後5年が経ち、今もほとんどの土地が更地の大槌町。
以前、山崎さんが工事関係者の方からお話を聞いたところ、このように言われたことがあるそうです。
復興するまで、まだまだ。後5年はかかるんじゃないかな。
5年という一つの節目を迎えても、思うほど復興は進んでいない場所もある…。それほど東日本大震災は、多くのものを奪っていきました。
家、日常、そして、大切な人たち…。
これから先、5年10年と月日が流れても、全て元通りになることはないでしょう。もしかしたら、心の傷は一生消えないかもしれません。
それでも、絶対に忘れてはならない教訓。ほんの少しの油断が、自分や家族の命に繋がってしまうこと。
私たちは、震災とはどれほど恐ろしいものなのか、その全てをたくさんの人に伝えていかなければいけません。
東日本大震災を過去のことにしない。いつまでも関心を持ち、未来へと想いを繋いでいきたいものです。
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