子供が言うことを聞かずイライラ…そんな人に知ってほしいこと【きしもとたかひろ連載コラム】
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Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。
連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。
「子供がいうことをきいてくれない」というのは、よくある悩み。そんな時の、きしもとさんの対処法は…。
第6回『棚からぼた餅、ベンチからナポリタン。』
朝、ラップにくるんだご飯を電子レンジで温める。横着して素手で茶碗に移そうとしたものだから熱さに耐えきれずラップを脱がしたタイミングで熱々のご飯が茶碗ではなく床へダイブする。
朝食をとれないまま家を出て鍵を閉めたところで着ているパーカーが部屋着だと気付く。さっきの米粒が裾についていて、さすがにこの格好では出勤できないなと、閉めた鍵を抜かないまま反対に回す。
着替えをして部屋の鍵を再び閉めてから階段を降り始めたところで同じアパートの住人と目があったので会釈をする。大きな袋を抱えているのが目に入って、あることを思い出す。
前々回のゴミの日から出しそびれて膨れた45L袋を今度こそ忘れないようにと昨晩玄関に置いたのだった。降りかけた階段を一段飛ばしで駆け上る。
ごみ収集所に来て本日最大のミッションを遂行した達成感でスキップしそうになったところでポケットWi-Fiを忘れたことに気づく。Wi-Fi環境なしで一日過ごす不便さを考えれば電車一本遅らせても取りに帰るべきか、と考えて踵を返す。
ポケットWi-Fiをカバンに押し込みようやく駅に向かって歩き出す。出だし順調とは言い難いけれど雲ひとつない空を見たらいい一日になりそうな気がして大きく深呼吸する。
少し冷たい空気が心地良い…あれ?…マスクをしていない。なんてこった。財布は忘れてもマスクは忘れてはいけないこのご時世。さすがに取りに帰らないわけにはいかない。
2本遅らせた電車に乗りながら友人からのメールに返信する。朝から散々だったことも報告すると「通常運転で安心するわ」と返信が来た。
そうか、これがぼくの通常運転か。たしかにうまくいかないことも平常だと思えばイライラしない。うまく生きられない自分をそのまま受け入れてくれる存在はありがたい。
音楽を聞いて気分を上げようとイヤホンを探す。朝、歯を磨きながら出発の準備をしているときに手に取ったイヤホンを、忘れないようにとパーカーのポケットに入れたのだ。
そうだ、「忘れないように」とパーカーのポケットに入れたのだった。落ち込むどころかむしろ期待を裏切らない自分に感心する。うん大丈夫、これがぼくの通常運転だ。
想定通りにいかないことと向き合うということ
子どもに何か行動を促すとき、たとえば移動して欲しいとか片付けしてほしいというときには、指示ではなく「お願い」をするようにしている。
強制ではなく、あくまでもお願いだから相手には断る権利があるし、断られたら無理強いはしないようにする。
選択できるというのはその子の人権や主体性を尊重する上で重要な要素だ。
けれど、どうしても行動してほしいときはある。人手がなかったり時間がなかったり、いずれにしてもこちらの都合なんだけれど、そんなときに受け入れてくれなかったら少し強い口調でお願いしてしまう。そうなったら「お願い」とは表面だけで半ば強制だ。
意固地になって動かない子がいて、どうしても説得できないときは最終手段として怒って、ほとんど脅しのような形でむりやり行動を促してしまうこともある。
そんな時にふと思う。最終的に拳銃を突きつけて無理にでも言うことを聞かせるのなら、はじめから子どもが自分の思い通りに動くことを前提にしているんじゃないのかって。
もちろん拳銃は比喩だけれど、子どもの思いを尊重すると言いながら穏やかに声をかけているつもりでいて、実のところ最後は力でどうにかできると思っているんじゃないか?と。
こちらの想定内の内容であれば、その子が選択したことを尊重できる。けれど、想定外のことでも受け入れられるだろうかと考えたら自信を持ってイエスとは言えない気がする。
ぼくは「子どもの主体性を尊重しています」とよく言っているけれど、こちらが用意した数ある正解の中から、その子が選んだことを尊重しているだけにすぎないんじゃないか。
もちろん危険なことは尊重できないし、選択肢が限られている中でどれにしたいかを決めてもらうことはある。
けれど、ゼロからどうしたいかを聞いた時や、子どもが想定していない言動をした時に、本当に子どもの気持ちを受け止めているんだろうか。
根っこの部分では子どもを手のひらの上でコントロールできると思っていて、こちらが描いた正解に向かわせようとしているんじゃないか。そんなことを考えたりする。
とりとめない話を、たとえば何度も忘れ物をしたとかゴミを出し忘れたとかそんな話をした時に「だから?」と興味なさそうにされると傷ついたりムカッとしたりする。
とりとめない話だから取るに足らないと思われても良いはずなのになぜか傷つく。
それは、自分の話に興味を持ってくれないとか無下に扱われたというような、相手の振る舞いだけが原因ではなく、自分のなかにも要因があるような気がする。
ぼく自身が知らぬ間に相手の反応を予想あるいは期待しているんじゃないかと。
こんな風に返ってくるのかなと。ありがとうと言えばどういたしましてと、頑張れよって言ったらお前も頑張れよと返ってくるように。期待に似た当たり前を抱いているのかもしれない。
それが明確ななにかではなくても、無意識に何かしらの期待をしていて、そして「思っていた反応と違う」ことにがっかりしているんではないだろうか。期待はしていなくても想定はしている。
あの子があんなことをするなんて、あの人があんなことを言うなんて、と裏切られた気分になったら、もしかしたらそれは自分が勝手にその人を想像の中で作り上げたり、自分の当たり前で勝手に期待しているだけなのかもしれない。
いつも遅れて来るからとギリギリの時刻にバス停に向かったら、バスが停留所を通り過ぎたところだった。ということが何度かある。
いつも遅れるくせに…とは逆恨みもいいところで完全に自分のミスなのにイライラしてしまうのは、遅刻するかもという余裕のなさではなく、想定通りに事が運ばないからなのだろう。
朝晴れていたのに帰宅のタイミングで雨に当たる。運が悪いなという気持ちと合わせて、天気予報では降らないと言っていたのに…と傘を持たなかったことを誰かのせいにしたりする。
けれどよく考えたら天気なんて自分じゃどうしようもないこと。ある程度の予測はできてもコントロールできないことはわかっている。なのにイライラしてしまうのは、想定外のことが起きたことが気に食わないのかもしれない。
いつも乗っている時間に電車が来ない。思っていた言葉を返してもらえない。子どもが言うことを聞いてくれない。そんな時についイライラしてしまうのは「余裕がない」のとあわせて「思い通りにいかない」という要因もあるのだ。
それは、わがままという意味ではなく、僕たちは無意識に自分の都合のいいことを想定したり期待したりしているということ。
買いたいものが買えたり、食べたいものが食べられたり、誰かが自分のいうことを聞いてくれたり、ある程度自分で思った通りに生きられる経験をしていると、気づかぬうちになんでも努力次第で計画通りに進むと錯覚してしまっていたりするのかもしれない。
けれどどうかな。考えてみれば自分の思い通りになることの方が少ないんじゃないだろうか。他人の言動も、電車の発着も、天候も、どんな事象も自分の意のままにはいかない。それを存外忘れがちなのだ。
雨が降るかどうかわかっても雨を止ませることはできないように、どんなことも、ある程度予測はできたとしてもコントロールするのは難しいし、それは傲慢でもある。
雨が降るなら傘をさすか雨宿りをするように、自分じゃコントロールできないことに一喜一憂するよりも思い通りいかないこととどう向き合うのかを考えた方がいいのかもしれない。
相手がどんな振る舞いをしてどんな言動をするか、こちらの用意したものになぞるのではなく、その人の言動をその人のものとして、それを自分はどう受け止めて解釈するのか。
例えば子どもの発達段階って、子どもが育つ上での一つの指標となる。何歳ごろにこれができるようになって、何歳ごろはこんな機能が発達してというようなもの。
けれど、その通りに育てようとすると個人差があるから求められる子どもはしんどいだろうし、発達段階通りに育っていないと保育者は不安になるし子育てがしんどくなる。
じゃあこの発達段階って何のためにあるのかっていうと、その子のそのままの姿をより深く理解するためにある。
たとえば誰にでも笑っていた子が、急に泣いたり恥ずかしがったりするようになったときに、顔を識別できるようになったのかな、安心できる存在との違いを認識できるようになってきたのかな、周囲の目が気になるようになってきたのかな、とそれぞれの年齢の発達段階からその子の育ちを前向きに解釈することができる。
もうすぐ人見知りの時期だから上手に人見知りできるように脅かしてやろう、なんてことはしない。
その子の姿を肯定的に受けとめて育ちに気付くために、知識が役立ってくる。その知識を役立てるためには、その子の姿をしっかりと見なければいけないから、その知識を「期待」ではなく「視点」にして、まるまる受けとめて見守ることが大切になってくる。
想定外を当たり前にしてみたら。思い通りにいかないことが当たり前だと思えたら、新しいことや偶然起きたことも発見できるんじゃないかと思うのだ。
ここを育てようと思うと、そこが育っているかどうかでしかその子の育ちを見ることができない。自分の思いもしないところが育っているかもしれない、と視点を変えると見えていなかったその子の姿に気づくことがある。
大人が意図してなくてもいい。偶然の産物でもいい。その子から生まれたその子の育ちに、僕たちが気づければいいのだ。
予定をきっちり決めてその通りに動く方が安心する人もいるから、どちらが良いとか悪いとかではないけれど、僕みたいに毎日ドジ踏んで、出る目がだいたい裏目の人間としては、思い通りにことが進まないのを基準にした方が楽だったりする。
自分がうまくいかないたびに、ドジを踏むたびに「自分なんて」なんて思わなくていいように。予定通り想定通りにいかないのは当たり前なんだよって。
そんな失敗も笑い話にしたり、そんななかで「よかったね」って思えることを見つけていければ。
自分の正しいに固執しないためにも大切なことだと思うから、もしうまくいっているなと感じることが増えたら、それはもしかしたら自分が誰かをコントロールしているかもしれないと思えたら。
そんなときは少し気を抜いて、「想定外」が起きることを楽しめるような余裕を持てたらいいな。
余談ですが
ある夏、キャンプに行ったときに一年生の男の子が弁当を一口も食べずにひっくり返してしまった。これからの人生で弁当箱を見るたびに毎回思い出してしまうんじゃないかというくらい、それはそれは落ち込んでいた。
半年くらい経ったころ、公園へピクニックに行ったときに同じようなことが起きた。別の子が一口も食べていない弁当箱をひっくり返してしまったのだ。
ぼくたちがなぐさめながら代わりのものを買いに行こうと話していると、キャンプで同じ目にあったその男の子が「おれも落としたことあるでぇ〜」と笑って声をかけていた。
その子にとって苦い思い出ではなく、笑って話せる出来事になっていることに安心した。同時に、「かわいそうに」となぐさめるのとはまた違う優しさを感じた。
うまくいかない、失敗をする、要領が悪い、そんな経験がユーモア次第で誰かを救うこともあるんだよね。
休日の昼間、良い天気だったのでコンビニでナポリタンを買い人気のない公園を見つけて食べることにした。蓋を開けて持ち上げようとした瞬間に手を滑らせて見事に地面にひっくり返した。
「おれも落としたことあるでぇ〜」というあの子の声が聞こえたような気がした。砂まみれになった麺を容器に戻して、一緒に買ったペットボトルの緑茶を飲んだ。
これでぼくも、誰かが弁当をひっくり返した時に声をかけてあげることができる。
きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』
[文・構成/きしもとたかひろ]
きしもとたかひろ
兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。
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